Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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時は流れず(6)〜夢幻のごとく
 過去は記憶であり、未来は想像である。
 時間は「過去から現在を経て未来に向かって流れている」という感覚が常識人の感覚である。「過去→現在→未来」と並べられた「線形時間」の構造である。だが、今の今、と呼ばれる現在は記憶でもなければ想像でもない運動をともなった実体としての現実である。
線形時間の構造を素直に描写すれば以下のようになる。
時間は記憶の世界から現実の世界を経て想像の世界に向かって流れている
さらに詳しく描写すれば以下のようになる。
時間は記憶という無形の意識世界から現実という有形の物質世界を経て想像という無形の意識世界に向かって流れている
さらに描写の方法を単純化すれば以下のようになる。
時間は無形の世界から有形の世界を経て再び無形の世界に向かって流れている
さらに表現を現代風に変換すれば以下のようになる。
時間はバーチャルの世界からリアルの世界を経て再びバーチャルの世界に向かって流れている
 以上の描写から線形時間を総括すれば、時間は連続する均質な世界を流れているのではなく、不連続で異質な世界を貫いて流れていることになる。放たれた矢が「意識世界から物質世界を通過して再び意識世界に向かって飛んでいく」などという構造の妥当性をいかに納得すればいいのだろう?
 だが誰もがかくなる線形時間の非整合性をそのままにして生活していても何ら問題は発生しない。であれば線形時間は正しいのか? それとも大いなる錯覚に裏打ちされた間違いなのか?
 仮に線形時間が大いなる間違いであった場合、自然界の生物の中において人間のみが、かなり奇妙で不可思議な世界に生きていることになる。状況をいっきに還元して表現すれば「人間は夢幻のごとくの世界」に生きていることになる。
 以下蛇足ながら付言すれば、アリストテレスを悩ませた古代ギリシアの自然哲学者、ゼノンが唱えた「アキレスと亀」、「飛んでいる矢は止まっている」等々のパラドックスはかくなる線形時間に隠された根源的な疑義に端を発している。
 「アキレスと亀」とは ・・ 走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである ・・ とする議論。
 「飛んでいる矢は止まっている」とは ・・ もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かないとする議論。
 これでは何を言っているのかわからないような説明であるが、本質は「アキレスと亀」と同じであって、放たれた矢がある通過点を通過するとき、その通過点の前にある中間点を通過しなければならず、その中間点を通過する前にはその前にある中間点を通過しなければならず、その中間点を通過する前にはそのまた前にある中間点を通過しなければならず ・・ というように無限の中間点を通過しなければならない。 結局、放たれた矢は先に進むことができず「止まっている」ことになる。

2017.06.02


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