Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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最も美しい顔とは
 鉄鋼会社に入社、大阪にある製鋼工場に赴任、製鋼設備の保守を担当していた若き日のことである。 私には「忘れ得ぬ笑顔」がある。
 駆け出しの若輩者であった私に、その彼は少しも恥じらうことなく「人間にとって最も美しい顔は笑顔だ」と教えてくれた。彼は私より10歳程も年長の現場の職長であった。当時の製鋼工場では旧弊が残っており現場の職制は「伍長代理→伍長→組長代理→組長」というようにまさに軍隊式であった。彼はその伍長である。ヘルメットには黒色の太い帯が1本巻かれていた。呼称のとおり、彼は現場では「歴戦の勇士」であった。その彼が「最も美しい顔は笑顔だ」というのだから言われた私が戸惑ったのも無理からぬことである。
 その理由を彼流の言葉で語ってくれた。 それを私の言葉で説明すると以下のようである。
 若き日、彼は気むずかし屋で笑うことはなかった。そのため周囲との関係が思わしくなく孤高の日々をおくっていた。あるとき彼は考えた「人間として人間らしい顔とはどのような顔なのか?」という根源的な問いである。行き着いたのが「動物の中で笑うのは人間だけだ」という事実である。以来、彼は人間として人間らしい顔は「笑顔である」ことを信じて、周囲に向けて笑顔を投げかける。最初は引きつったような笑顔であったらしいが、周りが笑顔で返してくれるに及んで「心から笑える」ようになったという。そしてついに冒頭の言、「人間にとって最も美しい顔は笑顔だ」という究極に達した。それからは惜しみなく笑顔を振りまくことにしたというのである。
 その後、私は彼の笑顔の凄絶さに畏怖することになる。 次第は以下のようである。
 製鋼現場では時として溶鋼炉が爆発したり、炉心が溶融して底が抜けてしまう大事故が発生する。千数百度の溶鋼が流れ出てしまうのであるからその復旧作業の過酷さは筆舌を超える。作業員は地獄の釜の底のような環境下で昼夜に渡って働かなくてはならない。彼らの顔は黒く煤け作業衣は塩を吹いて戦場のようであった。その現場指揮官であった彼は交代することなく復旧完了まで現場にとどまっている。あまりに長時間が経過したとき、彼を交代させようと炉底に下りていくと、疲弊した作業員の中にあって輝きを失わない目をした彼が動きまわっている。交代をいやがる彼を説き伏せて炉底から上がらせ風通しのいいタラップで休ませた。
 彼は手摺りにもたれてあらぬ方向を見つめている。その横顔を覗くと、あろうことか、彼は「静かに笑っていた」のである。そのとき私は背筋が寒くなるほどの畏怖を覚えると同時に動かし難い畏敬の念にうたれた。彼のいう笑顔とはこういうものであったのか。私は声をかけることもできずに彼の横で只々立ち尽くすばかりであった。
 それから幾星霜。 自らをもって笑顔が少なかった私にそう教えてくれた彼は今はもういない。その「最も美しい笑顔」を私にのこして彼は天国に旅立っていった。

2017.03.13


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