Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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壁に想う〜蓄積された時間
 独特な白色を使ってモンマルトルの街角を描いたモーリス・ユトリロ(1883年〜1955年)は「もし パリに2度と帰って来れないなら 何を持ってパリを去るか?」と尋ねられたとき、「漆喰のかけらを持っていく」と答えたという。
 同時代のパリに生きた日本人画家に佐伯祐三(1898〜1928)がいる。大阪に生まれた佐伯は1924年渡仏、フォーヴィスム(野獣派)の画家、ヴラマンクに出会う。ヴラマンクから自らの作風を「アカデミック」と批判されてからは画風を一変させ荒々しいタッチで描いた。ユトリロにも影響を受け、パリ裏街の店先や広告などが書かれた壁をモチーフにして個性的な風景画を生み出すが、心身を病み1928年8月16日、異郷パリにて30年の短い生涯を閉じている。パリの街角や近郊の美しい村落を重厚な色彩と激しい筆致で表現、熱情のなかに郷愁をふくんだ佐伯の作品は、今なお多くの人の心を魅了する。
 佐伯にしてユトリロにして、何にゆえにそれほどまで「パリの壁」に執着したのであろうか?
 第495回「蓄積された時間」では、その壁に蓄積された時間について以下のように書いている。
 かってパリの裏街通りに住み、古びた壁ばかりを描き続けた日本人画家がいた。画家は壁には街が背負った歴史が刻まれ、太陽の光と風雪が刻んだ「時間が蓄積されている」と述懐した。パリの壁にとどまらず、あらゆる物(モノ)には経過した時間が蓄積され、また蓄積された時間はその物に表象している。 還元すれば、「物とは時間」であり、また「時間とは物」である。
 ローマの古代コロセウム、ギリシアのパルテノン神殿、はたまた奈良法隆寺の伽藍 ・・ 等々には、その上を流れた遙かな時間が刻まれ、蓄積されている。我々は、これらの蓄積された「悠久なる時間」に遭遇することで、圧倒され、感動させられる。
 人間とてこれらの物と何ら変わりはなく、「通り過ぎていった時間」が身体に蓄積される。ただ、時間で刻まれた「その顔」が、パリの壁ほどに重厚で、穏和で、静謐であるかどうかは別にして ・・・。
(2004.11.11)
 佐伯やユトリロが眺めていたものとは、あるいは物としての壁ではなく、パリの空の下を流れていった遥かな時が紡いだ「時空の物語」ではなかったか? そして、我々が彼らの風景画に魅了され、引き込まれるわけとは、その蓄積された時間が表象する物語の重厚さであり、静謐さゆえではあるまいか?

2017.03.02


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