今、筆者にはふたつの印象的な場面が脳裏に映っている。ひとつは青雲の志を胸に郷関を出でて、大阪での勉学生活を始めた頃に訪れた奈良国立博物館での風景である。押しボタンによりパネル表示された寺院に創建年代順に赤い豆電球が点灯する装置があった。最初のボタンで日本列島にふたつの点灯が表示された。ひとつは摂津難波の四天王寺、他のひとつは我が信濃の善光寺である。善光寺が奈良に点在する幾多の古寺より古いとは想像だにしないことであり、驚きとともに、郷関を出た直後の思いと重なり、大いに誇りを感じた記憶がある。薄暗い館内で点灯していた、ふたつの赤い豆電球の場面は今も鮮やかに目に残っている。
----------------- (中略) ------------------
「扶桑略記」の仏教渡来の記述によれば、信濃善光寺の草創の年次は明らかにしえないが、欽明天皇の代に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇の代に秦巨勢大夫(はたのこせのたいふ)に命じ、信濃国に送ったと記している。さらに同書は「善光寺本縁起」を引用して、欽明天皇の代に、百済国より摂津難波に漂着した阿弥陀三尊仏が、推古天皇の代に信濃国、水内郡に移ったとしている。また「伊呂波字類抄」には、推古天皇の代に信濃国、麻績村へ如来が移され、さらに皇極天皇の代に、水内に移り善光寺が創建されたと述べている。これらの記述は、いずれも伝説的であって、その是非をにわかに定めることはできないが、境内から出土した瓦は白鳳期のものであり、その創立は七世紀後半と推定されている。また善光寺信仰の勧進教化の説話には善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされ、冥界からの救済を説く善光寺信仰と、四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ、善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させるという話が遺されている。これらの経緯からは仏教伝来草創期における摂津四天王寺と信濃善光寺に引かれた点と線がかいま見える。( 安曇古代史仮説より抜粋)
|