Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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心の目
 以下の記載は、科学哲学エッセイ「時空の旅」(平成 6年 9月18日 初版第1刷発行)で描かれた「心の目」と題された論考からの抜粋である。
 人間がもつ視力とはどのようなものなのであろうか ・・? 平均的な視力で言えば1.5である。だがこれは網膜が物体をとらえる肉体的な機能値であり、これをもって必ずしも視力があるとは言えない。映画「座頭市」のように盲目であっても、つまり、視力0であっても視力1.5の人間(映画の中では悪人)を縦横無尽に斬りまくることができる達人さえもいるのである。
 かって「ロボットの目」を研究した科学者の話を読んだことがある。人間と同じ目をロボットに搭載するべく研究をスタートしたのであるが、大きな壁にぶつかって研究は頓挫してしまう。どうしても人間と同じ目にならないのである。紆余曲折を経て到達した結論は人間の視力に与える「心の作用」であった。
 通常、工学的に物体を視覚としてとらえようとする場合はCCDカメラ等を使用して画像認識をする。とらえた画像とコンピュータを連動させてその物体が何であるのかを判断するのであるが、スピードにおいてとても人間にはおよばない。我々は自分の腕時計を年間、何千回と見るのであるが、「その腕時計を見ずに、その時計の文字盤が如何なるものか描いて見なさい」と言われると、ほとんどの人が描けないという。人間の目は写真機と同じようにレンズをとうし網膜にその画像をとらえるのであるから文字盤もしっかり写っているはずである。だが見えていないのである。それは我々が腕時計を見る目的が「時間を見ようと」していることに帰因している。したがって、アナログ時計の場合であれば、「時針の角度」であり、デジタル時計の場合であれば、「表示された数字」である。時間を知るために必要なこれらの画像は瞬時にとらえ、あとは無視するのである。文字盤も網膜に写っているのであるが、認識としては見えていないのである。他方、工学的な目ではCCDカメラで腕時計全体の画像をとらえ、その中から時針なり数字なりの画像を抽出し、それらをコンピュータを介して、今何時であるのかを判断するのである。人間は時間を知りたいという意志(心)をもって腕時計を見るために、このように「合理的な視力」を働かせることができるのである。言うなれば、工学的に作った目には「心」がないのであって、ロボットの目を作るという研究テーマは、つまりは「心の作用」を研究するということに至ってしまったのである。
 人間の目はかくこのように要領よく都合よくできているのである。 さらに探求を進めれば、人間は「心」のありかたによって、視力1.5の人が盲目にも、また盲目の人が視力1.5以上にも見えているという事実に行き着く。 恐怖にさいなまれている人には無いものが見え、心が動転している人には有るものが見えない。 聴覚や触覚においてもそれは同じことであり、「心」ここにあらずば「聞くもの聞こえず」、「触るもの感ぜず」なのである。
 人間は「心」が集中していくと音が聞こえなくなる。 マンガ本に集中している子供たちは回りで展開している母親たちの井戸端会議の騒音(?)は聞こえていない。だが母親たちの話題がレストランに食事に行くことに転じた瞬間、かくなる騒音は「聞こえる音」となって、顔はマンガ本から彼女たちの方へ向きを変えるのである。 これらの感覚を工学的に作りだそうという試みは現代の科学技術をもってしても「至難のわざ」なのである。
 (※)2016年の現在、本稿執筆当時では困難とされたこれらの課題も徐々に解決されつつある。開発が進む「自動運転技術」などはその好例であろう。 しかしながら、ともなって開発が進行する「人工知能」が人間の「心そのもの」を置換できるのかどうかはいまだ不明である。

2016.06.28


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