科学は客観性を究めたものであり、心学は主観性を究めたものである。また科学は自らの外なる現象世界を究めたものであり、心学は自らの内なる心象世界を究めたものである。
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陽明学を創始した王陽明(1472〜1529年)の言う「心は即ち理である」とする「心即理(第935回)」の考えを、科学と心学に演繹すれば「心学とは即ち科学」であり、「内なる心象世界は即ち外なる現象世界である」ということになる。言うなれば「内なる心象世界と外なる現象世界は表裏一体を成すひとつのものである」ということである。
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しかしながら、以上の思考展開を「まともに」考える人の数は現代社会では希少であろう。客観性に基づいた科学が説明する外なる現象世界は「信じられる」が、主観性に基づいた心学が説明する内なる心象世界は「うさん臭い」というわけである。 |
科学が依って立つ根拠は「客観的な観察」にある。ではこの客観的観察を内なる主観性の源泉である「心の作用」を抜きにして可能であろうか
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今、蟻を観察しようとしている。
網膜に写っている「蟻(アリ)」を「蟻と認識する」とはいかなることか ?
科学が究める「完璧な客観性」とは、網膜に写った「蟻の画像」のみである。
もし蟻の横に「蜂(ハチ)」が写っていた場合、観察者は「どちらの画像」を観察するであろうか ?
あくまでも初心のままに「蟻に向かう」のか、それともふと生まれた心のままに「蜂に向かう」のか ?
それを決めるのは観察者の「主観的な心」である。
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つまり、科学が究める客観性といっても「この程度」の客観性なのである。心の視点を変えれば、絶対だと信じている科学が説明する「外なる現象世界」でさえ、「内なる心象世界」と同じくらいに「うさん臭い」ものに観えてくる。 |
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