未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
言葉と数式〜数式は言葉を超えたのか?
宇宙自然界がひとつの数式にまとめられたとしてもそれを言葉で説明できなければ人間が生活するうえでの有効な意味は発生しない。
アインシュタインが相対性理論を数式化したときに発せられた言葉とは「空間は歪む」であり、「時間は伸縮する」であったが、当時の人々にはその言葉の意味するものを「にわかに理解する」ことはできなかった。その後に行われたさまざまな観測と実験からその言葉通りの現象が明らかになることによって、数式の妥当性は証明されたが、その意味するところは依然として理解不能であった。
現在にいたるも「空間が歪むとはどういうことなのか?」、「時間が伸縮するとはどういうことなのか?」を自らの知覚をもってしかと理解する者がいるかは「はなはだ」疑わしい。「分かったような気がする」程度の理解にとどまっているのが実情ではあるまいか?
相対性理論に続いた量子論となると「かくなる傾向」はさらに著しくなる。現象は数式化されたが、その数式の意味するところは言葉では理解できない。だが観測され実験された現象が数式どうりに対応するから「それでよし」として、実用に供されている。
さらに宇宙自然界の運行をひとつの数式にまとめた「統一理論」とされる「超ひも理論」にいたっては、数式としての数学的整合性はあるとされるものの、10次元の宇宙現象など観測も実験もできないし、何を意味しているのか「まったく不明」である。
数学的数式とは現象の意味を理解するための道具であったはずなのだが ・・ いつのまにか本末が転倒し、数式が現象を超越してしまったかのような状況を呈している。今や言葉で理解するという人間としての根源的知覚はさほどに重要視されない時代に向かっているのであろうか?
本が売れなくなってきたこと、道理が通じなくなってきたこと等の社会世相の変化は、あるいはこのあたりに帰因しているのかもしれない。
先日、電子工学が専門の友人と話していて「あるコンピュータシステムが突然故障、懸命に復旧作業をしている間に原因がわからないままに直ってしまった。その会社は原因が不明なままにそのシステムをその後も使い続けるというのだが ・・ いかがなものか?」と質問すると、彼は「そういうものです」とこともなげに応えた。現代電子工学の基盤は量子論に立脚しているから当然といえば当然の帰結ではあるのだが、機械屋の私としては釈然としない成り行きである。
2015.11.02
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