Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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物質と意識の狭間(2)〜自然は芸術を模倣する
 これからの思考展開を考え、ここで科学哲学エッセイ「時空の旅」(平成 6年 9月18日 初版第1刷発行)で描かれた「自然は芸術を模倣する」と題した小論を以下に抜粋する。
 芸術家はまず彼らが生活している身の回りを取り囲む自然をながめ、それを模倣することから、その活動をスタートする。例えば芸術家が絵を描く場合を考える。ひとつの花を描こうとすると、まずその花をよく観察しなければならない。花を支える茎の太さ、長さ、構造、また茎から葉がどのように生え、その大きさが全体に対してどのような割合であるのか。また花を構成する花びらが、どのように重なり合っているのか等々。それらの観察を通し1枚のカンバスに、その花を描き採る。それが絵を描くことである。
 芸術家は実際に存在する花と1枚のカンバスに描き採られた仮想の花との間に介在している。つまり、カンバス上の花は芸術家(人間)がいなければ存在できなかったわけである。またカンバス上の花は芸術家の観察を通して描かれた仮想の花である。そのようなものである以上、その芸術家の観察能力や鑑識眼、審美眼等によりカンバス上に現れた花はさまざまに変化する。100人の芸術家がいれば100通りの花がカンバスに現れるのである。その中のどれが実在の花を描き採ったのであろうか。我々には判断のしようがない。
 これはなにも絵に限ったことではない。彫刻においても同じことである。どれが実在の美しい女性の身体を刻みだしたのか。小説家はある出来事を言葉という手段を使って文章に現す。そのどれが出来事の実体を本当に伝えているのか。全ては仮想なのである。さらに、これはなにも芸術家や小説家に限ったことではなく、人間の表現活動全般に言えることなのである。物理学者は同様に自然を観察し絵筆とカンバスを使うかわりに数式を使い自然を表現するのであるし、音楽家は音符を使用する。手段は異なるものの全て自然の実体を描き採ろうとし、表現しようとする人間の作業努力の活動なのである。
 我々はそのようにカンバス上に現れた仮想の花を見て、逆に実在の花を見ようとする。その過程で、またも、人間の想像という仮想が作用する。否定の否定は肯定であろうし、逆もまた真なり。ひょっとするとこの過程で花の実在に到達するのかもしれない。
 般若心経に「色即是空、空即是色」という言葉がある。色とは物のように形あるもの、つまり実在を意味する。これが即ち空、じつは何もない実在しないものであるとするのである。しかし、次ぎにこれを逆に打ち消す。空つまり何も無い実在しないと思うと即ちそこに色、形ある物の実在があるというのである。これが観自在菩薩が修行の先に到達した悟りであり、直感した認識であったというのである。般若心経を貫く精神は、ただただ、このひとつに集約できると言っても過言ではない。そして、それを左右するものは人間の心のこだわりであるとするのである。砂漠で道に迷った旅人は飢えと乾きの状態でさまよい歩く。このような時、夜の暗闇の中で水たまりを見つけた旅人は清水を飲むように、その水を飲む。一夜明けて、光の中で見た水たまりは、清水どころか、ボウフラが浮かぶ腐った水たまりであったのである。その時、もう旅人はその水を飲むことはできない。昨日は飲めて、今日は飲めない。水には変わりがないのであるが、そこに人間の認識が作用すると同じ水ではなくなるのである。人が人を恋するのも同じである。女性は世界に何億人といるのであるが、彼が恋したその女性はただの1人しか存在しない絶世の美女であるし、彼女が恋したその男性は、これまた1人しかこの世に存在しない勇敢な心やさしいヘラクレスなのである。しかし、恋の夢から醒めた彼や彼女は、それが幻滅の対象に変化する。彼や彼女の本質は変わってはいないのに彼らが心変わりをしたとたんに別の世界が現れるのである。あると思うと無い、無いと思うとある、という般若心経の世界はこのようなことを述べているのであろう。
 話は横道にそれたが、要は、芸術家が自然(実在)をカンバスの上に現したり、音楽家が楽譜の中に現したり、小説家が文章の中に現したり、物理学者や数学者が数式として現したりすることは、みなこのような認識の作用の影響下にあるものなのである。現された仮想の世界を見て我々はまた我々自身の認識の作用をもって自然(実在)を仮想する。仮想の仮想は実在なのであろうか。時として我々はどこかの美術館で見た1枚の絵の世界と全く同一の自然の風景に出会ったり、小説の中の出来事に実際に出会ったりすることがある。それはまさに「自然が芸術を模倣している」ように我々には思える。まさに「色即是空 空即是色」なのである。であるのであれば物理学者や数学者が記述した数式を自然は模倣して我々の回りを運行しているのであろうか ・・・?
 多分に勢いで書いた論考ではあるが、当時すでに「物質と意識の狭間」に向けて新たな地平を拓かんとする探求心の萌芽があったことが自覚される。それから21年の歳月が経過したことになる。
物質と意識の狭間(3)〜発見か発明か / 第891回 へ続く

2015.08.18


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