Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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結果と過程
 ・・・・古来、一般探偵小説の情緒的基盤は、殺人はあばかれ正義が行われるという点にあった。その技術的基盤は、最後の大詰めをのぞいては比較的無意味にちかいという点にあった。大詰めへ導くための操作は多少とも過渡的作業であるを免れない。大詰めがすべてを正当化するのである・・・小説における技術的基盤は、よい場面を生みだすのがよいプロットであるという意味あいから、場面がプロットに優先する点にあるのだ。理想的な推理小説とは結末の部分がちぎれていても読みたくなるようなものだとされた・・・私がはじめてハリウッドの仕事に手を染めたとき、あるきわめて賢明なプロデューサーは、推理小説の映画化で大当たりをとることはできないと私に語った。すべての興味は映写時間にして僅か数秒にもみたない暴露場面にしばられるのだが、その頃には、観客は帽子に手をのばしているからというのである・・・・。
 以上は正統派ハードボイルドの巨匠、レイモンド・チャンドラーの言葉である。確かにチャンドラーの探偵小説は結末の部分がちぎれていても読みたくなるし、またそこがチャンドラーの魅力でもある。ひるがえって日本の教育方針は「結果より過程だ」を基としてきた。だがいつの間にか世相は「過程より結果だ」に変質してしまった。巷間、「結果より過程が重要だ」などと主張しようものなら、たちまち「時代遅れの烙印」を押されかねない。価値観が変わってしまったということであろうが、今では人生観さえも「大事なことは過程ではなく結果だ」との主張が優勢を占めるまでに及んでいる。
 だが結果重視の価値観では、チャンドラーが言うように物語の「大詰め以外の描写」は意味をなくしてしまうし、「大詰め以外の人生」に意味がないとすれば、くだんの賢明な映画プロデューサーが言ったように、人生はわずか数秒で終わってしまう。
 実に面白い小説や映画は、ひとつひとつの場面にあるのであって、結末はそれほどに重要ではない。しいて言えば、結末は「各場面のきっかけ」でしかない。「結果より過程だ」を捨て、「過程より結果だ」を取ったことで、我々がいったい「何を得て」、「何を失った」のかは、よくよく熟考して玩味することが、今求められている。
※)レイモンド・チャンドラー
 アメリカ合衆国シカゴ生まれの、小説家で脚本家。1932年、44歳のとき大恐慌の影響で石油会社での職を失い、推理小説を書き始めた。最初の短編「脅迫者は射たない」は1933年「ブラック・マスク」という有名なパルプ・マガジンに掲載された。処女長編は1939年の「大いなる眠り」である。長編小説は7作品だけで(8作目は後にロバート・B・パーカーが完結させた)、他は中、短編である。「プレイバック」以外の長編はいずれも映画化されている。死の直前にアメリカ探偵作家クラブ会長に選ばれた。1959年3月26日、カリフォルニア州ラホヤで死去。

2014.10.20


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