大上段からの警告である。確かに社会は変わってきている。表面ではなく奥底での変化である。その中で、長く続いた資本主義が変質するのもまたしかり、投資しても収益があがらなければ、その根幹が揺らぐのは当然であろう。それでもなお投資するとすれば、それは別の目的の「何か」である。もはや資本主義と物的生産活動は「つながっていない」のかもしれない。そのことは物質的収益より金銭的収益が重視される現状を眺めればよく了解されるであろう。つまり、目指しているのは「収益のための収益」である。
収益のための収益では意味をなさないが、その無意味なところが、現代経済学の特徴である。つまり、「バーチャル(仮想)」なのである。それはあたかもテレビゲームのような世界であり、何らの物的生産性がなくとも存立しうるのである。物的な確証がない以上は、ある日突然に、その世界が消滅しても何ら不思議ではない。物的価値を表さない株価が激しく上下するのは「収益のための収益を目的とする経済メカニズム」の為せるところである。それはかってあったバブル経済と同様である。違いは「チューリップの球根」や「土地」などを対象としたバブルではなく、収益という「はなはだ存在があいまいなもの」を対象としていることである。だがバブルである以上は、いずれ破裂するであろうが、それでもなお日銀は資金を無制限に供給し続けている。「資金のための資金」とはいったい「何で」あろう。
同様に企業は商品の売上げ拡大を目指して「広告につぐ広告」を続けている。広告しても売上があがらない構図は、投資しても収益があがらない資本主義と同じである。だがそれでも広告するのは、悪いのは商品ではなく、広告の方法が悪いのだと思っているからに他ならない。あの手この手で広告するうちに、やがてバーチャル(仮想)な世界に入っていくのもまた資本主義の状況と同じである。商品という物的価値は置き去りにされ、広告というバーチャルな世界こそが、企業活動の主戦場であるかのように変じていくのである。つまり、「広告のための広告」である。
目的が失われれば手段が目的化するのは最初からわかっていた話ではあるが・・手段が目的化した世界がどのようなものなのかは・・かいもく視界不良で未知数である。
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