安倍政権は憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に向けて驀進中である。だが解釈を変更すれば憲法の内容を変えることができるという考え方には論理矛盾がある。この論が正しいとすれば、憲法は時の政府の下に位するものとなり、その権威は失墜し、法治国家としての礎は崩れ去ってしまう。与えられた憲法だからその程度のものだとでもいうのであろうか。
先の大戦では軍人と民間人を含め 5000万〜8000万 の人が亡くなった。その内、日本の死者数は 262万〜312万人 と言われる。その終結から今年で69年の歳月が経過した。その日その刻、日本人の誰もが戦争の惨禍に深く哀しみ、こころの底から懺悔したはずである。「二度と戦争は起こしてはならない」と。
ドイツ人数学者、ヘルマン・ワイルは「数学と自然科学の哲学」の中で、「自然の最も奥深い謎は、死んでいるものと、生きているものとの、対立と共存である」と述べている。確かに今を生きる人々のために社会は構成されているわけであるから、現実にそくした経済的合理性と物質還元主義によって、国家の進路を決定して何が悪いのかという論理は成り立つかもしれない。だがそれは紙の表側だけをとらえた論理である。見えるものは見えないものによって支えられているがごとく、生きている者は死している者によって支えられているのである。
安倍さんは靖国神社参拝に際し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」と述べた。だが祀られている英霊たちはいったいどのように思っているのであろうか。死せる者の願いを思いやることこそが、今を生きる者としての感受性であろう。生きている者は、ときとして現実に目が眩んで、この感受性を喪失させてしまう。だが生きている者もやがては死している者の仲間に加わっていく。そのとき、死している者の魂の叫びをいかに聴くのであろうか。時代の感受性とはそのようなものである。その感受性を失った生きる者とは、いったい「何もの」なのであろう。
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