酷暑が列島を覆っている。 6月上旬をもって盛夏の8月上旬なみの暑さだという。
強烈な陽射しに照らされ、蝉は狂ったように鳴き騒いでいたが、あたりは不思議な静寂に満たされ「無言の刻」が流れていた。昔日の夏の昼下がりの情景である。喧噪に満たされた現代社会は何の情緒もなく「多言の刻」が流れていく。 「あの刻」はどこにいってしまったのか・・?
確かに、興味を引く映画も、テレビ番組もあったわけではなかったが、そこには濃密な時間が流れていた。現代社会は華やかに彩られていても、どこか無機質で、化石のように無表情である。人が生きるとは単に便利で、豊かで、安穏であればいいというものではない。その世界を彩るのは、その世界を生きる人たちの意識であって、その意識が濃密であったとき、その世界に濃密な時間が流れるのである。
「その刻」はどこにいってしまったのか・・? という問いは、結局、「その意識」はどこにいってしまったのか・・? という問いに置きかえられる。
現代社会の刻が何の情緒もなく過ぎていくということは、とりもなおさず現代社会を生きる人たちの意識が希薄であることの裏返しなのである。