維新の英雄、吉田松陰は処刑直前に獄中で書き上げられた「留魂録」に、以下の辞世の句を遺している。
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置かまし大和魂
確かに松陰の魂は身が消滅したあとも今なお生き続けている。この世は「意識」と「行動」で構成されたPairpole(ペアポール)であるから不思議なことではない。だが現代社会では松陰のようなことにはならないであろう。松陰における「意識」とは行動するように意識する意識であり、決断するように意識する意識であって、現代社会における意識のような行動をともなわない意識や、決断をともなわない意識とは別次元のものである。行動をともなわない意識や、決断をともなわない意識とは、よく言えばメルヘンのような、わるく言えば妄想のようなものである。
松陰の「Pairpole宇宙」がこの世に出現し得たのは、確固とした意識と行動のPairpoleが、ひとり松陰の中で奇跡のように結晶化したがゆえである。