現代は「人は何のために生きるのか」を考えなくなってしまった。今や「人はいかに愉しく生きれるのか」が最大の関心事である。
分からなくはない。ここまで進歩した社会では何のために生きるかなどと考えてみても、情報化の波に麻痺した頭脳では何も浮かんではこない。頭脳がそうであれば、いかに愉しくという課題に対する「アイデア」も同様に浮かんではこない。せいぜい誰かから「こうすれば愉しいよ」と教えてもらうのが精一杯のところであろう。その誰かでさえ、最近ではスマートフォンであったり、テレビであったり、ネットであったりと、無機的な人格にとって変わられつつある。
かかる状況の中での愉しく生きるの解答は、先日までは「温泉」・「グルメ」・「お笑い」であったが、現在ではどうであろう。「グルメ」は今なお堅調のようであるが、「温泉」・「お笑い」は幾分低調になってきたのであろうか・・。
やはり「いかに愉しく生きるか」を追求していくと、再び「何のために生きるのか」という問いに戻ってしまう。いかに生きるかを考えずして、いかに愉しくというアイデアを浮かべることは困難である。その理由はいかに愉しくの主体が「自分自身」であるからに他ならない。誰かから、あるいは各種の情報機器から「あなたの愉しみはかくかくしかじかですよ」と言われても、「はいそうですか」と納得できるほど人は単純ではない。愉しみとは自らが愉しいかであって、あなたが愉しいかではない。あなたの愉しみをもって、わたしの愉しみとすることもないではないが、続けると精神的な無味乾燥状態に陥ってしまう。
愉しみの源泉は「自らが愉しいか」が欠くべからざる絶対条件なのである。ゆえに、自分に向けての問いは、掛け値なし、正真正銘なものでなくては、存在の壁を越えることはできない。他者が聞いて、なるほどその通りだと言ってくれても、自身が「いまいち」と思えば、壁は依然として越えられないのである。この一点においては、人は絶対的な孤立無援の状態であって、スマートフォンもテレビもネットも何の力もない。
いかに愉しくという問いは、ここに至って再び原点に回帰する。そう「私は何のために生きるのか」という根本義である。つまり、愉しく生きるとは、そうたやすいことではないのである。考えて考えて煩悶する中で、ようようにして生まれてくるものなのである。