やしきたかじんがこの世を去った。報道メディアはたかじんを「関西の高視聴率男」と銘打ってその報を配信した。およそやしきたかじんほど、その肩書きに苦労する人も他にはまれであろう。歌手、司会者、芸人、活動家、文化人、評論家・・等々。暴言で激昂する司会者たかじんからは繊細でナイーブな歌手たかじんは想像できず、活動家たかじんからは評論家たかじんを想像できない。それらをまとめて、やしきたかじんなのである。
私は18歳から26歳までの多感な季節を大阪で過ごした。はじめは武庫川を隔てて甲山を眺めた武庫之荘〜次には淀川が大阪湾に流入する西淀川の工場地帯〜そして閑静なベットタウン千里山〜しまいは法隆寺の鐘の音を遠く聞き、大和川の蛇行を眼下に眺めた王寺の丘陵地と点々と移り住んだ。振り向けば懐かしき街並みや漂っていた人情風情が走馬燈のように駆けめぐってくる。そこには確かに大阪があった。
そんな大阪を、やしきたかじんは御堂筋を渡る風のように、北の新地から南の難波、南の難波から北の新地へと全速力で駆け抜けていた。たかじんが「やっぱ好きやねん」と歌えば、桂銀淑が大阪暮色で「だまされた私があほやねん」と呼応する。それは「割れ鍋に綴じ蓋」を地でいく大阪の「恋の物語」であり、まぎれもない「愛の賛歌」である。やっぱ、やしきたかじんは「大阪を背負った男」という肩書きが、ほんま似合っている。
かくして不世出の伊達男は去り、大阪の街も淋しくなった。だが今日だって、暮れなずむ淀川の川面には赤や青のネオンが美しく映え、街の灯がかつ消えかつ浮かんでいるにちがいない。それが大阪なのである。