リチャード・ファインマンは私が好きな物理学者のひとりである。理由は問題の解決を数式に頼ることなく多く図形(一般にはファインマン・ダイヤグラムと呼ばれている)を用いるところである。言うなれば直感をベースにした右脳的思考である。さらに加えれば、子供のような純粋さで未知なるものに立ち向かう人格的魅力である。世の毀誉褒貶に惑わされることなく、生涯を通じて「宇宙の真理」をのみ、ひたすらに追い続けたのである。
ファインマンの人格を物語る逸話がのこっている。
ある記者が真夜中に電話で「ノーベル賞を取りましたよ」と知らせてきた時に、「もっとまともな時間にかけ直せ」と言って電話を切ってしまったというのである。
また世界の記憶にのこる名場面は、1986年2月11日、テレビ中継されたスペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故に関わる調査委員会の記者会見の場でのこされた。
調査委員会にただひとりの科学者として参加していたファインマンは、事故がシャトルに使われたガスケット(ゴム製のOリング)が低温で弾力性を失ったためであるという事実をつきとめ、その事実を簡単な卓上実験を使って、記者会見の場で公然と示したのである。その卓上実験とは、事故当日の気温と同じにしたコップの水の中に、問題となったOリングを入れ、取り出したOリングを簡単に押しつぶし、弾力性がなくなっているのを視覚で見せるというものであった。
このシンプルな卓上実験によって、ファインマンは事故のおもな責任がNASA幹部にあることを明確に示したのである。彼らは当日の気温が通常よりも低すぎるから打ち上げを延期したほうがいいという技術者たちの警告に耳を貸さなかったのである。当日の朝の気温は摂氏マイナス1.7度だったが、過去の打ち上げでは、最低でも摂氏11.7度はあったのである。その不都合な事実を調査委員会はもみ消そうとしたのだが、ファインマンはひとり断固として闘い、言葉(数式)ではなく、実験(図形)によって白日の下にしてみせたのである。それは右脳の達人、リチャード・ファイマンが世界の人々に向けて放った面目躍如たる一世一代の「大見得」であった。
稀有なる天才物理学者は、その2年後(1988年)、10年に渡るガンとの闘いに終止符を打って天国に旅立っていった。名場面はその苦しい闘病の中で演じられたのは勿論のことである。それはまた私の記憶に刻まれた「ファインマンの風景」である。
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リチャード・フィリップス・ファインマン(1918年5月11日〜1988年2月15日)は、アメリカ合衆国出身の物理学者である。経路積分や、素粒子の反応を図示化したファインマン・ダイアグラムの発案でも知られる。1965年、量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。