言葉の未来 |
情報のもとは言葉であることには異論なきところであろう。情報化時代とは換言すれば「言葉の流通化時代」である。
だが情報化技術が発達して過剰に言葉が流通するようになるとその価値は低下する。それは工業化時代において、物品の過剰な流通が、その価値をみるまに低下させていった状況を想起すれば納得されるであろう。言葉の流通においてもそのメカニズムは同じである。低下した言葉の流通価値を上げるために、必要以上に不必要な装飾が施されるようになることもまた物品の場合と同じである。
その後、物品の流通価値は「軽薄短小」の過程をたどったのであるが、言葉の流通価値もおそらくは同様の経過をたどるであろう。言葉はますます「軽く」、「薄く」、「短く」、「小さく」なっていくに違いない。だが問題は、言葉を物品と同質なものとして扱うことの妥当性である。物品は商品化されたが、同様に「言葉を商品化」することが妥当であろうか。NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で話題となった「じぇじぇ」という言葉は、いまや商品のようにもみえる。
思考をさらに展開すると、次には言葉で構成された「意識が商品化」され、ついには意識で構成された「魂までもが商品化」されることになる・・。ここまでくると「あとに何が待っているのかを想定する」ことはできなくなる。言えることがあるとするならば「言葉の未来を考えることは情報化社会の未来を考えることでもある」という思考の道筋だけである。 |
2013.08.15 |
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