昔あるところに |
私がその医院を訪れたとき、駐車場はまんぱいで、かろうじて1台分だけがあいている状態であった。待つことが得意でない私はやめようかとも考えたが、せっかく来たのだからという思いが勝って中に入った。待合室はまさに立錐の余地もないほどに混み合っていた。とりあえず受付をすませて、壁際にしばらく立っていたが、そのうちソファに1人分の空きができたので座ることができた。
かくなる世界はそこから始まったのである。
目の前60cmほどのところに年の頃4〜5歳のクリクリ頭の男の子が、30歳ほどであろうか小柄で可愛らしい母親が手に持つ絵本を真剣なまなざしでのぞいている。母親の胸には生まれたばかりの赤子が紐でゆあえられた状態で抱かれていて絵本をもたない片手はその子の背中にまわされている。母親は赤子とクリクリ頭の双方に目を配りながら照れることもなくその絵本を朗読しているのであるが発する声音は大きすぎることもなく、といって小さすぎることもなく、耳障りのよい優しさに満ちていた。それはちょうど保育園の保母さんが子供たちに語って聞かせるような抑揚と情感にとんだ口調であった。その声の響きが気持ちいいのか胸の赤子はうんともすんとも、むずかることなくその胸に顔をあずけている。ふと気づくと私の横にすわっている白髪の老婆もまた曲がった背を前にかがめて、かって育てた自らの子の顔を思い描いてでもいるように、男の子の表情をほんのりと笑みを浮かべてながめている。
「昔あるところに・・・」から始まって「・・・おしまい」で終わる1巻の物語は、次々に運んでくる男の子の新しい絵本で再開される。やがて1冊づつでは効率が悪いと考えたか、今度は数冊づつ運んでくる。私は目をつぶって聴き続け、老婆は微笑みとともに聞き続けた。話は「舌切り雀」から「かぐや姫」へと続き・・それとともに「昔あるところに・・・おしまい」というテンポのよい名口調もまた快く続いた。いつしか待合室の喧噪は遠くに去り、スポットライトを浴びた童話の世界のみがそこに存在しているようであった。
話が「ヘンゼルとグレーテル」までいったとき、診察を告げる男の子の名前を呼ぶ声が天から降ってきて世界は一足飛びに現実の世界に引き戻された。目を見開いてながめた時計は1時間30分を経過していた。医院に来た目的も忘れてまどろんだ私はいつになく満足感で満たされていた。老婆の名が呼ばれ、私の名が呼ばれたのはそれからほどなくしてであった。 |
2013.02.20 |
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