どこにもいて、どこにもいない |
量子の世界では物質は波動性と粒子性という2重の性質をもっている。但し、波動性を観測したとたんに粒子性は消え、粒子性を観測したとたんに波動性は消えしまう。同時に観測することはできない。
この状況を現実的に表現すると「私という物質は観測されるまでは宇宙全域に波動のごとく広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない。しかし、ひとたび宇宙の局所で観測されるやいなや、波動性は消滅し(あらゆる可能性は消滅し)、粒子性としての私はその局所にしか存在することができない。」と表現される。
量子の2重性を表現するもうひとつの方法は「量子はあらゆる可能性を事前に試みる」というものである。たとえば台風の進路は進行方向に開いた扇形の確率で示されるが、我々が観測する進路はその中のたったひとつの進路のみである。だが台風自身はその扇形の進路すべてをすでに事前に試みているのである。この場合、扇形で示された確率的な進路が波動性であり、観測されたひとつの進路が粒子性にあたる。
ここ5年ほど、私は研究開発している映像技術のために故郷の信州各地を巡り歩いてきた。つまり、私は波動のごとく信州全域に広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない状態であった。
「信州つれづれ紀行」 には、粒子としての私の局所における位置プロットデータが表示されている。
この状況を物理学的な解釈をもって解説すると、私はこの信州紀行を始める時点で、すでに「あらゆる可能なルートを試し終わっていた」のであって、私の「5年間の粒子としての位置プロットデータの分布」とは、始める時点ですでに試みられていた波動性の確率分布であったというものである。量子は一瞬の刹那に時空を超えて「あらゆる可能性」を把握し、体験してしまうのである。
上記から導かれる帰結は、人の一生とは、この世に生まれ出た時点において、確率的に可能なあらゆる人生がすでに試みられていて、「私の人生とは1個の粒子として生涯をかけてその波動性確率分布をトレースするにすぎない」という運命論に近づいていく。 |
2012.12.31 |
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