尽きることはない |
西暦607年、聖徳太子が、遣隋使として小野妹子を随国に派遣した際にしたためた国書の冒頭。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや・・(大意)日の昇る国の皇帝(日本の天皇)、日の沈む国の皇帝(中国の皇帝)に国書を送る。お変わりはございませんか・・」。善意で読めば、東に位置する日本(朝日が昇る)の明日香に住まう天皇より、西に位置する中国(夕日が沈む)の洛陽に住まう煬帝に向けて送った対等な文書ということになるが、隋書倭国伝では「帝これを見て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、蛮夷の書、無礼なる物有、また以って聞する勿れ・・(大意)この国書を見て、煬帝は激怒し外務大臣の鴻臚卿を呼びつけ、野蛮な国の者がこんな無礼な手紙をよこした。また何か言ってきても無視するように・・」と書き記されている。
当時、中国の周辺国では大国中国に使いを送るときの文書は必ず、臣下の礼をとり、絶対服従の態度で臨んでいた時代であって、対等外交などはとんでもないことであった。さすがの才子、小野妹子はその場を何とかやり過ごし、隋も高句麗攻めをひかえていた事情もあって、日本を敵に回すのを得策と思わず、翌年に答礼使の斐世清を日本に派遣してきたが、この斐世清の位階は30のうち29番目(外務省の課長補佐級)であり、隋が当時の日本を見下していたことを物語っている。
また小野妹子は帰国後、煬帝からの返書を百済に盗まれて無くしてしまったと奏上している。日本書記には「臣參還之時 唐帝以書授臣 然經過百濟國之日
百濟人探以掠取 是以不得上」の記述がある。これは返書が倭国を臣下扱いする物であったため、上奏して怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかと推測されている。
そして時空を隔てた西暦2012年の今、両国は尖閣諸島を挟んで強硬に対峙している。だが彼の国と我が国の意地の張り合いは、かく眺めれば今に始まったものではなく、遥かな歴史を通じて行われてきた「掛け合い」なのであって、両者の言い分に尽きることはないのである。 |
2012.9.28 |
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