永禄4年(1561年)の川中島での謙信との激闘の後、10年して、信玄は遂に天下の覇権を賭けて、上洛を決意した。
元亀3年(1572年)10月3日、2万の大軍を率いて甲府を出発・・10月10日、遠江に進行・・10月下旬、二俣城を攻撃開始・・11月下旬、同城攻略・・12月22日、三方ヶ原の合戦で徳川・織田連合軍を撃破・・元亀4年(1573年)1月、三河に進攻し、野田城を攻略・・・まさに破竹の勢いで織田、徳川軍を粉砕して行ったのであるが・・・。
野田城攻で受けた負傷(ある説に鉄砲の弾があたった、またある説に目に矢が刺さった・・等々、いまだ不明)がもとで、「風林火山」を旗印にした自然人にして、最強の戦国武将、武田信玄は天正元年(1573年)4月、高熱の末、あっけなくも突如としてこの世を去った。享年53歳。
最期の言葉は「明日は瀬田(滋賀県大津市)に旗を立てよ・・」であった。
信玄を失った武田軍は、遺言「我死して後、喪を三年間秘めよ」に従い、影武者を立て、軍を甲斐に引き返す。その退却は、上洛を目前にしての「謎の反転」として世人の耳目を集めた。
その後、かかる好機に乗じて、信長、家康が天下をその掌中におさめたことは後世周知のごとくである。
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