ヘルマン・ワイルの言ったごとく、自然現象(世界)はただ「ある」のであって、「おこる」のではないであろう。
「ある」と「おこる」の根本的な違いは「意志の有無」にある。
意志は自然現象の側にあるのか・・はたまたその自然現象を眺めている私の側にあるのか・・?
ワイルはかかる意志が私の側にあるとし、私の身体の生涯線(世界線)に添って、上方にむかう私の意識を凝視しようとした場合のみ、世界は時空的連続として、私の前を過ぎ去っていくように見えると考えた。
つまり、「意志無くあった世界」が、私の前を過ぎ去っていく「意志有るおこった世界」として見えるとしたのである。
時代は過ぎ去っていくように見える。
しかし、ただ「ある」世界が、過ぎ去っていくなどということはない・・おそらく、過ぎ去っていったのは、「あった」世界ではなく、私の意識内に「おきた」世界であろう。
私の意識内に「おきた」世界の「時空的連続」が、私をして、「あった」世界が過ぎ去っていったように感じさせるのである。
私の意識内に「おきる」世界の時空的連続に最も多大な影響を及ぼしている意識概念は「進化論」であろうことは容易に想到される。
つまり、自然現象(世界)が「未来に向かって進化していく」とする世界観である。
この論の根本的重大さは、世界がただ「ある」のではなく、進化しようとする「意志」をもっているとする点にある。
しかしながら、よく考えてみれば、進化するという世界観とて、人間の意識が創り出した概念であり、「人間のみ」が、自然現象(世界)が進化すると考えているに過ぎない。言うなれば、意志無くただ「ある」自然世界に、我々人間が、おせっかいにも「あなたは進化する意志をもっている」と、押しつけているに過ぎない。
おそらく、世界は何も変わってはいない。
変わったのは私の内なる意識世界であろう。
結局、私の生涯線とは、私の内なる意識世界の変化によって相対的に自然世界に発生した「時代変化」と、私の内なる意識変化の変化速度によって相対的に自然世界に発生した「時間経過」によって構築された「時空的連続」である。
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