「ヒーロー(英雄)」が現実社会から消えて久しい。
今や、ヒーローは、もっぱら映画や小説の中にしか登場しない。
情報化時代らしく、ヒーローも「リアリティとしての生身の人間」から「バーチャルとしての仮想の人間」にシフトするものらしい。
映画や小説の中に登場する「現代のヒーロー」に共通するものとは何か・・?
それは圧倒的な「個の存在感」である。彼らは周囲を取巻く国家、社会、時代・・等々を「嘆くこと」、あるいは「批判すること」を一切しない。
取巻く環境は、彼らにとっては「活動の背景」であり、肯定したり、否定したりするような対象ではない。
もとより、背景が与えられなければ、彼らの活動もなく、個の存在感の創出もない。与えられた背景は、彼らにとっては「活動源」なのであって、いかなる逆境、いかなる順境、いかなる悲惨、いかなる危険・・等々も、個の存在感の創出においては本質的には何ら差異はなく、選別することも、また拒むこともない。
彼らの目的は、取巻く環境(国家、社会、時代・・等々)をどうこうしようとするところにあるのではなく、与えられた環境を「舞台背景」として、魅力ある個の存在感をいかに創出するかにある。
彼らは、かかる舞台背景の中で、いかに美しく、いかに潔く・・言うなれば、いかに「カッコよく」行動し、生きるかに、日も夜もなくこだわり、究極の情熱をかたむける。
彼らの価値観は、あたかも「武士道の美意識」のようであり、目的達成よりも、その過程に顕れる挙措の美を追求した、いにしえの「雅の精神」のようである。
生身の現代人は、取巻く環境(舞台背景)である国家、社会、時代・・等々を嘆き、批判することに情熱をかたむけ、その舞台背景を個に都合よく変革することにこだわり、目的として活動している。
与えられた背景をそのままにして「個を創造する」ことと、個をそのままにして都合よく「背景を変革する」ことでは、目的と手段が紙の表裏のごとく反対である。
現代社会において、生身のヒーローが現われない理由は、かかる目的と手段の逆転にあるのではあるまいか・・?
しかしながら、現代人が目的とする、個をそのままにして環境としての背景を変革しようとする試みは「満たされることはない」であろう。すべての個を満足させようとする社会改革への取り組みが、部分的成功はみられたものの、最終的には、ことごとく失敗に帰したことは歴史が証明するところである。
がゆえに・・銀幕で踊る現代のヒーローたちは、目的よりも手段にこだわるのである・・そして、我々もまた、無意識下において「そのことを」充分にわかっているからこそ、彼らの活躍に感動し、拍手喝采するのである。
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