言葉、さらにその言葉を連ねた文章は、数式を連ねる代数学と同構造であり、従って「文章文学は線の世界」である。
画像、さらにその画像を配置した絵画は、図形を配置する幾何学と同構造であり、従って「絵画芸術は面の世界」である。
線の世界である文章文学は、第1章から順次に連なった言葉の意味と文章の筋書きを考え続け、最終章に至って「何事かを」理解する。
面の世界である絵画芸術は、1枚の絵画に配置された画像を眺め、一瞬にして絵画に表象している「何事かを」理解する。
文章文学の手法は多く「秀才」が好み、絵画芸術の手法は多く「天才」が好む。前者は連なった言葉を記憶することで何事かを理解するがゆえに「記憶力」がものをいい、後者は配置された画像を直観することで何事かを理解するがゆえに「直感力」がものをいう。古来、記憶力は秀才のものであり、直感力は天才のものである。
近年、読書人口の著しい低減が指摘されている。その原因は、何事かを理解するために長時間をかけて1ページ1ページと言葉の意味を考え続ける文章文学の手法が、現代社会のスピードに合わないためか・・あるいは何事かを1枚の絵画から一瞬で理解する絵画芸術の手法に「未来の可能性」を見出し始めたためか・・?
前者は小説よりは漫画を、読書よりは映画を好む「現代若者気質」の説明であり、もし後者であれば、それはすなわち、記憶力に頼る「秀才の時代」から直感力に頼る「天才の時代」へ転換する予兆である。
とまれ、未来創出に向けての胎動は、いつの時代もまた「地中深く」で進行しているのである。
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