「線の世界」を表象する代数学は数学的問題を数式を使用し「考えることで解決」し、「面の世界」を表象する幾何学は数学的問題を図表を使用し「眺めることで解決」する。
考えることは「論理的」であり、「顕在意識的」であり、眺めることは「抽象的」であり、「潜在意識的」である。
考えるとは「意識を集中させ」線の世界である「論理的階段をひたすら登りつめる」ことであり、眺めるとは「意識を拡散させ」面の世界である「抽象的地平にひたすら佇む(たたずむ)」ことである。
物質は「粒子性」と「波動性」という2つの性質を具備し、時として粒子性を顕し、また時として波動性を顕すが、決して同時に2つの性質を観測することはできない。
考えることは粒子性に類似し、眺めることは波動性に類似する。
眺めることは「意識が波のごとく」宇宙全域にあまねく広がっている状態であり、考えることは「意識が粒のごとく」宇宙局所の1点に集中している状態である。
近代認識学は長期間に渡り、考えることを優先してきたが、もはや相転位を促す臨界点に達した観がある。その状況は現代社会の諸世相が包み隠すことなく能弁に物語っている。
臨界点を突破するためには、偏狭矮小に硬直した「小さな頭で深刻に考える」のではなく、広大無辺に柔軟な「大きな心で気楽に眺める」ことが必要である。
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