物質が宇宙を発生させるのであれば、新たな物質の発見は、とりもなおさず「新たな宇宙の発見」でもある。
いまだ何も発見されなかった宇宙の彼方に、ある星雲が発見されれば、時空間はその星雲の周辺まで拡大することについては前項までに述べた。
宇宙を規定する「シュレジンガーの波動方程式」における「宇宙の発生」は、かかる方程式における「波動関数の収縮」として述べられ、波動関数を収縮させるものが、「意識的観測」である。
難解な話は割愛して、以下に要点を述べる。
例えば・・私が松本市の片隅で観測されるまで、私という1個の物質は波動状態として霞のごとく宇宙全域に広がっている。(この状態を量子物理学では、私は宇宙のあらゆる場所に存在していて、またあらゆる場所に存在していないと表現する)
だがひとたび松本市の片隅で意識的観測が行なわれるや、波動状態として霞のごとく宇宙全域に広がっていた私は、一気に1個の粒子性に転化し、松本市以外のどこにも存在することはできず、松本市にしか存在しないという「たった1個の宇宙に収縮」するのである。(但しこの観測は意識的観測という条件付きであり、ネズミが私を観測したからとて宇宙が収縮するわけではない、私を私として認識できる意識を所有した者が観測した場合のみ収縮するのである)
「宇宙の収縮」という波動理論的表現が嫌いな人には、「宇宙の発生」という言葉に置換えるが、つまり、宇宙は意識的観測という行為によって発生する。
物質が宇宙を発生させることは、以上のように、あらゆる科学の根源的理論とされるシュレジンガーの波動理論からもその妥当性が導かれるのである。
だが忘れてはならないことは、「観測すべきは物質」であるということである。
姿形なき幽霊を観測したからとて、宇宙が収縮、つまり、新たな宇宙が発生するわけではないし、同様に姿形なき意識を観測したからとて、新たな宇宙が発生するわけではない。
新たな宇宙の発生を可能にする観測は、どのようなものでもいいが「物質」でなければならない。それは顕微鏡で覗くミクロの世界でも、望遠鏡で覗くマクロの世界でも同様である。
例えば、ミクロの世界の局所で「ある素粒子が観測」されれば、そこに「新たな宇宙が発生」し、新たな時空間が見出される。またマクロの世界の局所で「ある星雲が観測」されれば、そこに「新たな宇宙が発生」し、新たな時空間が見出されるのである。
かかる思索はやがて「知らない宇宙は存在しない」という箴言に帰着する・・つまり、「存在するとは観測することである」と・・・。
|