情報を世の隅々まで、くまなく行き渡らせることが「情報化社会」が目指すものであるとすれば、その社会は地球上の全人類(現在、約60億人)に「意識の均一性」を将来する。
現代社会が効率化されたシステム社会の構築を目的としているのであれば、この意識の均一性は、誠に好都合にオペレーションは進行していることになる。
産業革命以来、急激に進展した「工業化社会」の最大の課題は工業製品の「標準化」であった。我々が技術者として世に出た当時の標準規格は「JIS規格(日本工業規格)」であり、経済がグローバル化した現在の標準規格は「ISO規格(国際標準規格)」である。かかる標準化によって今眼前にする豊饒な物質文明社会が実現したのである。
意識の均一性とは「意識の標準化」であり、それはいわゆる「意識のISO規格化」に他ならない。
結果、意識を所有する人間の存在感は質から量に転化し、人間の工業製品化(商品化、部品化)が急激に促進され、その活動はもっぱら「コストパフォーマンス(費用対効果の比率)」という工業製品と同等の効率値で評価されることに至る。
工業製品の標準化が高効率の物質文明社会を実現したことから類推すれば、意識の標準化は高効率の精神文明社会を実現することになろうが、果たして高効率の精神文明とはいったい何を意味するのであろうか・・?
またそもそも、質を喪失した量としての機械人間が活躍する「高効率精神文明社会」などに生活したい人間が果たして存在するというのであろうか・・・?
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