物質世界は一瞬もとどまらず「生々流転」する。
もし意識世界を、この生々流転する物質世界に従わせるならば、その変化に同調させ、自身の意識世界も変化させざるを得ない。
だがそうすると、彼の人生は世で俗に言う「物事に一喜一憂する」ことになる。
貧すれば明日の生活の維持に一喜一憂し、富めばその富の喪失に一喜一憂する。
世が乱れれば自己の存続に一喜一憂し、世が泰平であれば自己の実現に一喜一憂する。
これらの一喜一憂に際限はなく、尽きることがない。彼の一生は、あたかも「一喜一憂の波」に弄ばれる木の葉舟のようである。
陽明学を創始した王陽明は「心即理」を唱えた。意識世界を生々流転する物質世界に従わせるのではなく、意識世界である心そのものを「主体」として、物質世界に対したのである。
主体とする心の持ちようで、物質世界は、美しくも、醜くもなる。
明鏡止水とは・・物事に一喜一憂することなく、心を曇りのない鏡のごとく、また静止した水のごとくに保って、生々流転する物質世界に対応する様である。
この世は、「物質世界」と「意識世界」のPairpoleである。現代物質世界の混乱と喧噪は目を覆うばかりであり、明鏡止水とまでいかずとも、少しは心を静かにして、世の生々流転に対応したいと思うのであるが・・・。
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