人が生きるとはいかなることか・・?
現代人の多くは「生きる」ことが「目的」であり、「なぜに生きるのか」はその目的達成のための「手段」である。
人間本来の目的は「なぜに生きるのか」であり、そのために「生きる」のが本筋であると考えるのだが・・・つまり、「なぜに生きるのか」が「目的」であり、「生きる」ことは「手段」であると。
現代人における、生きることが目的で、なぜに生きるのかが手段であるとすれば、生きる目的のためには、手段であるなぜに生きるのかは、いかようにも変更可能となる。
さらに問題なのは、本音では、かように目的と手段を入れ換えているにもかかわらず、建前では、なぜに生きるのかを目的とし、生きることを手段としていることにある。
このような意識の二重構造は、生活様式の多くがご都合主義に至る必然性をはらんでいる。つまり、やっていることと、言っていることが異なることは当然であり、「本音である生きること」が危うくなれば、「建前であるなぜに生きるのか」という「仮の目的」などは、たちどころに霧散霧消してしまうのである。
だがそうまでして、後生大事に守りぬいた「生きる」こととは、やはり「手段」なのでり、手段を獲得したからとて、目的を失ってしまったのでは、結局は何も得ることはできない。
中立(ニュートラル)な人生を、50年生きようと100年生きようと、何事も前には進まないのである。
かような状態で死をむかえるとすれば、その死は単なる「頓死」であり、そこからは何の意味も見いだすことができない。換言すれば「生きていなかった」こととそう大差はない。
現代人は肝心なところで生き方を間違えているのではなかろうか・・?
目的はあくまでも目的であり、手段はあくまでも手段であり、この転倒はいかなる理由をもってしても、覆すことはできない。
人生の目的は、あくまで「なぜに生きるのか」であり、「生きる」ことは、あくまでも手段でしかないのである。
従って、単なる長寿をもって「人間の幸福」と断定することはできないし、また単なる短命をもって「人間の不幸」と断定することもできない。
この断定の可否は、ただひとつ「なぜに生きたか・・?」である。
そのようにしてむかえた死とは「必然死」であり、人間の尊厳に輝く「大往生」である。
人が生きるとは、つまりはそういうことではないか・・?
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