天才はもともと「本物」であり、秀才はどこまで行っても「偽物」である。
天才は本物がゆえに「処世術」には頼らないが、秀才は偽物がゆえに「処世術」に頼る。
処世術とは、言うなれば、世の評価をいかに獲得するかの「方策」であるが、本物であることと、世の評価を獲得することの間には、直接には関係がない。世の評価の獲得は本物であることを保証するものではなく、往々にして、時の経過の中で、その誤りを証明することの方が多い。
本物にあるのは、あらゆるものから独立した、掛け値なしの「重さ」である。
ゆえに、天才はそのあらゆるものから独立した「重さ」ゆえに「寡黙」となり、秀才はその世評に従属する「言い訳」ゆえに「饒舌」となる。
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