「人生は重き荷を背負いて坂道を行くがごとし、急ぐべからず」、戦国の世に天下泰平を開いた徳川家康の言葉である。
よくぞ家康は忍耐したものであるが、この並外れた忍耐力こそ家康をして天下を獲らせた原動力でもある。
戦国武将として「改革の信長」、「創造の秀吉」、「忍耐の家康」の位置づけがあるが、結局は改革する者も創造する者も忍耐する者にはかなわなかったということか・・?
慎重に機会を待つ「忍耐者」の忍耐とは、5年や10年で終わるようなものではない。言うなればそれは壮絶な「根競べ」、「がまん競べ」の勝利者である。時に利なくば頭を低くし妥協し、隠忍自重の日々を淡々と過ごす。決して急ぐことをせずに利が回ってくる時を待つのである。
彼は時を待たずに急ぎ、つまずいて倒れた人々を詳細に観察し、その愚を悟ったのであろう。家康にとって「人生とは待つこと」であったのである。
何よりも、急いで目的を達したところで、ことはそこで終わるのではなく、その後も続くことを彼は充分に知っていたのである。言うなれば、目的の達成とは、新たな目的の出発であり、永遠に際限がないものであることを・・。
先を急ぐ人々は、その目的地に到達しさえすれば、「一息つける」と思っているが、それは錯覚であり、決して一息つけるような目的地などは、この世のどこにもない。換言すれば、この宇宙に「完成された姿」などはないのである。
つまり、宇宙は存在するだけであり、始まりも終わりもない。
宇宙に始まりや終わりを考えるのは「意識者の錯覚」である。その錯覚が、物事に始まりを創りだし、目的を創りだし、終わりを創りだしたのである。
物事の終わりは、次の物事の始まりであり、決して完結しない「継続(エンドレス)」である。
目的に向かって急ぐことは、あるいは人間にとって最大の「徒労」であり、その目的を裏打ちする理想とは大いなる「迷妄」なのかもしれない・・?
人々は常に理想と現実とのギャップにいらだち、煩悶し、そのギャップを埋めようと、理想達成という目的に向かって、しゃにむに歩みを進める。
だが理想の達成は、また新たな現実とのギャップの発生であり、新たないらだちと不満の発生でもある。結果、行けども行けども心休まる「一息つける」場所などは存在しない。
「過去・現在・未来」の創出もまた、「物事に始まりと、終わりを創りだした」人間意識に起因すると言っても過言ではないであろう。
宇宙は行けども行けども終わりはなく、行けども行けども始まりはない・・宇宙はただ存在するのみである・・。
忍耐する者、家康は、このような宇宙構造を悟った希有の人ではなかったか・・?
でなければ人間ばなれしたあのような強靱な忍耐力の意味を理解することができない。彼は未来に向けて先を急ぐ人々に「急いだ先には望むような一息つける場所などないよ」と言いたかったのではあるまいか・・?
このような宇宙構造は、哲学者ニーチェが提唱した「永劫回帰説」にも顕れている。永劫回帰説とは、時間は円環を成し、未来に向かうと過去に至り、過去に向かうと未来に至る。その円環上のいたるところが現在であり、際限なく過去と未来が移行する。この世に完成するものなどは何もなく、ただ存在するだけである。
結局、時間とは物事に始まりと終わりがあるとする人間意識が創りだした創作物である。
つまり、「時間は発明された」のである。
人間における拘束条件で最大のものは、時間と空間による拘束であろうが、その束縛は自ら考え出した意識操作による「意識作用」に他ならない。
時間の発明にあたって使用した「物事には始まりと終わりがある」という「意識操作」を捨て去れば、その意識作用である時間はたちどころに跡形もなく消滅してしまうのである。
人間は時間に追われていらだつことも、理想と現実のギャップに悶々と懊悩することも実は必要としないのである。
かく観ると宇宙の何と豊饒なることか・・すべては満ち足りて光り輝いているではないか・・。
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