革新的発展を遂げたニュートン力学は19世紀末に至り行きづまってしまった。
問題は光に関する2つの特異性に関してであり、ひとつは「光の速度があらゆる状況において一定に保たれる」ということ、他のひとつは「光が波動性と粒子性という2つの異なった性質を同時にもっている」ということであった。
前者の特異性は、この宇宙におけるあらゆる物体の運動速度が、足し算、引き算できるのに対し、光の速度だけが、その足し算、引き算ができないことである。光は神のごとく孤立無援であり、絶対的な自律を具現しているのである。
当時の科学者は考えた・・いったい宇宙自然界の万物事象が正しいのか・・?、はたまた異端児である光が正しいのか・・?
その結果は明快であった。
多くの科学者は万物事象の法則に従わない「光をこそ異端者」として遇したのに対し、ただ一人、アインシュタインだけは、光を異端者とせず、この異端者こそが「宇宙の真相を語る力を秘めている者」として遇したのである。
この異端者が語った宇宙の真相こそが、アインシュタインの「相対性理論」に他ならない。
異端者が語ったこの宇宙自然界の物語は誠に奇妙なものであった。
ニュートンが定義した、あらゆるところで一定に経過する「絶対時間」と呼ばれる時間などは、この宇宙にはどこにも存在せず、時間は宇宙のいたるところで「遅れていたり、進んでいたり」するし、また空間は「ねじれていたり、曲がっていたり」すると言うのである。
当時の多くの人々は、このような異説を提唱したアインシュタインをもまた、光と同様に異端者として遇したのである。
この異説が世に受け入れられたのは、イギリスのエディントン卿ひきいる日食観測隊が南アフリカまで赴き、「相対性理論からすれば、理論上は見られるはずのない、太陽の裏側に位置する星を、この日食の際には観測されるはず、というアインシュタインの予言」を観測事実として証明してからである。
その後、異端者の周りに押し寄せた喧噪と賞賛は説明するまでもない。
アインシュタインが特別に特殊な頭脳を持っていたわけではない。それは誰も相手にしない異端者であった光と友達になり、その異端者の語るところ静かに耳を傾けたに過ぎない。しかし、巷間よく言われる「コロンブスの卵」と同様、このような単純な逆転発想を発見することこそが、アインシュタインの非凡さと、また天才性を如実に示している。
宇宙は「まず光ありき」なのである。
その他の宇宙自然界の万物事象は光によって規定され、そのような形式で存在しているに過ぎないのである。つまり、この宇宙における「主体」は光であり、万物事象はその「従僕」でしかなかったのである。
この「大逆転」こそが、人類の宇宙認識において、「決定的に重大」であり、まさに「偉大な一歩」であったのである。
後者の特異性、「光における波動性と粒子性という二重性」に対する探求は、ボーアを中心とする物理学者たちが「量子論」への道を開き、その探求の旅はやがてシュレジンガーの「波動理論」に結晶化する。
この宇宙は波動性と粒子性という2つの性質が重なった(干渉している)複合した世界であり、あらゆる可能性にゆらいでいる。
まさに生死さえも、重なり、干渉し、ゆらいでいるのである。
20世紀、量子論は「ミクロの宇宙」を解明し、エレクトロニクス技術の輝かしい発展に寄与し、現在のコンピュータ社会を出現させたことは周知の事実である。
相対論と量子論を統合するものが「統一理論」と呼ばれる理論である。
アインシュタインは生涯を賭けて、この統一理論の構築を夢見たが、ついには到達できずこの世を去った。その後を継いだ、ロジャー・ペンローズ、デビット・ボーム、スティーブン・ホーキング等もまた、果敢にこの統一理論の構築に挑戦してきた。
ペンローズはスピン(回転)を基本にしたスピノールという量による渦巻き状の「ツイスター宇宙」を提唱し、ボームは意識的アプローチを基本とする「暗在系と明在系で構成された宇宙」を提唱している。また車椅子の天才科学者、ホーキングは超ミクロのひもの振動を基本とする「超ひも理論」こそがこの統一理論であると考えている。
渦巻きや、ひもの振動で構成される宇宙がどのようなものなのかの説明はさておくが、いずれも「光」を絶対的基準として宇宙を考えていることにおいては違いはない。
この宇宙、「まず光ありき」なのである・・。
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