Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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客観から主観への転換
 過去が参考にならず、また未来も想像することができない現代現実世界の状況からの脱出はいかに可能であろうか・・?
 その現代世界の中で遺伝子本能の赴くままに昨日と同じ今日を繰り返すことに、いったいどんな意味があるというのか・・?
 すべては「過去のもの真似」であり、かって読んだ「小説の一場面」である現代現実世界の状況の中で、オリジナリティの創造は可能なのか・・?

 以上の問いを客観的現実世界と主観的現実世界の2つの世界から考察してみよう。

 通常我々が現実世界として捉えている世界は、自己の存在を除外した客観的世界像であり、その客観的現実世界の中で、自己という存在がどのように「位置づけ」られ、どのように「評価される」のかを考えている。
 言うなれば、その客観的現実世界の中で「価値があるのか、ないのか」が自己の存在性の中核である。

 それはまた機械システムを構成する部品に対する位置や評価と等価であり、機械システムを構成するひとつの部品が、個のリアリティを主張しても、機械システム全体のリアリティが確保されていなければ、個のリアリティの基盤は喪失する。
 同様に現実世界での人間の個に対するリアリティを回復しようするならば、客観的全体のリアリティを回復させる以外に他に道はない。
 つまり、個のリアリティを回復しようとする人は、客観的全体に対して「伝道者」として、衆の覚醒を叫ぶ以外に他に自己が救われるすべがないのである。もし伝道者ではないとすれば、あるものは客観的全体を叱咤激励する「忠告者」であり、またあるものは客観的全体の枝葉末節をあげつらう「管理者」である。
 だが客観的全体世界にアプローチする伝道者、忠告者、管理者の艱難辛苦はなみたいていではなく、その効果のほども過去の歴史が証明しているところである。

 では次に、対極にある主観的現実世界から考えた場合、以上の構図はいかなるものとなるのか。

 主観的現実世界は部品である「個そのものの世界」であり、個としての自身のリアリティが回復すれば、未知なる未来の創造は可能である。
 期待すべきは客観的全体ではなく、主観的自己における過去との「参照」であり、未来への「予測」である。必要なことは「個の想像する力」であり、そこから発現する「個の創造する力」である。全体の中での位置や評価から考えられる個の存在価値ではなく、全体を抜きにして考えられる個の存在価値である。

 客観的現実世界のアプローチ手法は、言うなれば機械システム全体を構成する各ひとつの部品がシステム全体をコントロールすることを意味し、その困難さは計り知れない。

 主観的現実世界のアプローチ手法は、言うなれば機械システム全体を構成する各ひとつの部品がシステム全体にとって必要不可欠であることを自覚することであり、個はただ存在すればよい。お釈迦様が言ったという「天上天下唯我独尊」という視点であり、現実世界での主体は個であり、全体ではないという考え方である。
 主体が個であるとするならば、個は全体に対して何を伝道し、何を忠告し、何を管理する必要があるというのか。
 主観的現実世界で個が夢や、希望、情熱を抱くことに、全体の変革は何等も必要とされないのである。

 自己生命が消滅する時、全体は消滅し、全体が消滅する時、自己生命もまた消滅する。主観と客観の間には「1対1」の対応が成立しているのであり、問題はそのアプローチ手法の「有効性の是非」なのである。

 問題を簡潔にすれば、全体から個にアプローチするのか、それとも個から全体にアプローチするのかの選択である。

 過去の歴史経過が物語るように人類は集団化することに慣れ親しみ過ぎてしまったのである。この集団化は力の弱い哺乳動物である人類が、科学技術を手に入れるまでの最も有効な生存方法であったと考えられるが、今や科学技術の著しい進歩発展で人類は集団化しなくても生存が保証される段階にまで到達したのではなかろうか・・?
 かかる状況は過去のいかなる時代にもなかったものであり、それがまた現代現実世界の実像でもある。

 人間集団化を基に構築されてきた経済理論、社会理論等々が近年に至り、ことごとくその理論的有効性を喪失させている。その原因もまたこの人類社会の集団化に対する存在目的の喪失にあると断言することは過言であろうか・・?

 現在が歴史的転換点と言うのであれば、それは過去いかなる時代においてもなかった「集団から個への転換」、「客観から主観への転換」、「全体から部分への転換」という意味での転換点であろう。

 かかる大逆転は、閉塞した現代人間社会のリアリティの存在性を回復させ、未知なる未来に向けて門戸を解放するであろう。今までの社会は自己という「個が全体から評価されて」自身の居場所が与えられたのであるが、これからは自己という「個が全体を評価して」自身の居場所を決めるのである。

 「一人を救うものは世界を救い、世界を救おうとするものは一人も救えない」という箴言の真意もまた「ここ」にあるといえよう・・。

2003.9.24

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