ではリアリティとしての現実世界で生きる人間に、夢や、希望や、情熱はいかにして与えられるのであろうか・・?
目の前にする現実世界は「無気力」であり、「惰性的」である。人間の生活は「ままごと遊び」のようであり、人間の活動はあきあきした「コンピュータゲーム」のようである。
現実世界とは、ただ単に人間がこれらのままごと遊びと、コンピュータゲームを繰り返し、やがては死ぬまでの間、生命を維持しているだけの世界でしかないように見える。
生命維持の保証が科学文明の発達によって、極度に達成されてしまった後に、人間に残されるものとは、もはや単なる生命的存在というニヒリズムなのであろうか・・?
過去のいかなる時代においても、現実世界は人間が生活の糧を求めて奔走する世界であり、自然災害に恐懼し、これと戦い、これを克服するものであった。人間は地球上の未知なる領域に挑む冒険者であり、生命を賭けて闘うものであった。
今やそれらの切実な生存目的は現実世界から消滅しつつある。現実世界はグローバルスタンダード(世界標準)という統一価値の下に、ひとつの世界になろうとしているのである。
地球上の面積的、物質的な世界はくまなく調査され未知なるものは消滅し、衛星通信で地球上のあらゆる地域と地域、人間と人間は結びつき、情報と呼ばれる意識交換を可能とする。
かかる現実世界の登場は、どの時代にもあった、過去と継続する世界観、つまり、回顧思想を死滅させようとする。
ローマ帝国の興亡も、中世ルネサンスの光芒も、日本の戦国時代も、今や何らの意味を遺さず、消失しつつある。それらの世界観は、学術的なアカデミー世界の戯言に逸しようとでもするのか・・?
現実世界は人類が営々と築いてきたこれらの精神世界がもはやなんらの参考にならない歴史的特異点に突入しつつあるように見える。
人間は長い間、過去の論理、倫理が妥当性をもって通用する世界に慣れ親しんできた。それがまた人間にとって、最も安定した状態でもあろう。
だが、人間が達成された豊饒な生命保護システムである現実世界の中で、回顧思想にのみ拘泥していると、待っているのは無気力という「ニヒリズム」であり、やがてむかえる「頓死」である。
人間が無気力で惰性的な生活を続ければ、未知なる未来に立ち向かう勇気や意志を喪失し、何らの危険を冒さなくなることは必然の帰結である。ともなって、夢や、希望や、情熱を喪失することもまた必然の帰結である。
現代人が抱えるニヒリズムの本性とは、結局、豊饒な生命保護システムに起因する。さらに簡潔に言えば、物が栄えることによって、心が死滅していくのである。
誰しも未知なるものを嫌悪し恐怖するものであり、回顧的ロマンチシズムに浸っていたいものである。
なぜならば、過去世界は顕れたものであり、細部までありありと想起されるものであって、想起する自身の生命的危険性は微塵も存在しないからである。
だが、このような生活姿勢を現代人が継続するならば、やがては生命力も枯渇し、頓死をむかえる日もそう遠くはないであろう。
すべての豊饒が達成されることは、ある意味では人間にとって不幸である。為すべき必要性が存在しないのに「何かを為さなくてはならない」こと以上の苦痛はそうざらにはないのである。
以上の状況を別の視点で考えれば、それは「想像力の枯渇」であり、「創造性の喪失」である。人類の創りだした科学文明は、もはや人類の思考能力を遙かに凌駕してしまったのかもしれない。
はたして「未知なる未来」は想像可能なのであろうか・・?
想像なきところに、創造はないのであり、しかしてまた創造なきところに、人類の発展もないのである。
現実世界は単なる際限なき繰り返しであろうか・・?
人類は立ち尽くしてしまった。かって漫画家、手塚治虫氏が夢見た未来社会実現のめどがもはや立ってしまったとでもいうのであろうか・・?
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