人間がこの現実世界に確かに存在するという実存性は、時代が進むにつれて希薄になっている。それは以下のふたつの視点で語られる。
ひとつは「機能」という視点で語られる人間の実存性の喪失である。現代社会はありとあらゆるものをシステム化する。政治、経済・・等々、一部の隙もないほどにシステムの網が張りめぐらされている。
システムの最大の目的は、現実世界に顕れたあらゆる存在を機能という観点から位置づけ、その存在の特性を合理性という効率思考で連結させ人為的に制御しようとするものである。
我々人類はこのシステム思考によって、驚くほどに多量で多様な利便性を生み出し、現在目にする「文明社会」と呼ばれる「利便性社会」を構築したのである。
しかしこの利便性社会の発展は、現実世界で本来主役であったはずの人間をその主役の座から引きずりおろしてしまった。利便性社会の主役はシステムである。人間はその主役であるシステムを助演する端役であり、従僕のごとき位置に逸している。
人間自身が創ったシステムは、自らに与えられた目的使命を達成するために、逆にそれを創った人間自身を、そのシステムを構成する単なる機能的要素として位置づけ、組込んでしまったのである。
「部品的人間」の誕生である。
他のひとつは「認識」という視点で語られる人間の実存性の喪失である。現代社会はありとあらゆるものを情報化する。情報化とは人間認識による現実世界の編集化であり、リアリティとしての現実を、バーチャルとしての仮想的現実へ置換えてしまう。
「仮想的人間」の誕生である。
我々現代人は、自ら行ったシステム化で自らを「部品」として「機能化」し、自ら行った情報化で自らを「仮想」として「編集化」してしまったのである。
この人間の部品化と仮想化は、実に巧妙に仕組まれたと考えざるを得ない。なぜならば、この部品化と仮想化は、ともに自身が行う「意識操作」の産物に他ならず、加害者と被害者がともに同一人物である自分自身という「自縛的構図」をもっているからである。
我々現代人は、この現実世界の中で、一見すると華麗な機能的利便性と編集的仮想性に包まれ、我が世の春を謳歌しているようには見えるが、無機質な無数の機械部品が整然と連鎖し、休む間もなく、かいもく得体の知れないシステム目的の達成に向けて、無限循環の運動を繰り返しているようにも見えるのである。
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