現実とは「得たいの知れない何ものか」である。
群盲象をなでるのことわざがあるが、現実という得たいの知れない象をなでている盲人こそが、我々自身である。
足に触った人は、現実(象)とは「丸太」のようなものと言い、腹に触った人は「岩」のようなものと言い、鼻に触った人は「蛇」のようなものと言い、耳に触った人は「ヒラメ」のようなものと言う。
つまり、現実(象)とは、丸太で、岩で、蛇で、ヒラメのようなものであり、現実の得たいの知れなさは、かくこのようなものである。
丸太で、岩で、蛇で、ヒラメである象の姿を想像する意識が「認識」であるが、実際に象の全体像を知っている我々からすれば、丸太で、岩で、蛇で、ヒラメである象の姿を想像する認識などは「お笑いぐさ」である。
だが、この構図は単なる笑い話では済まされない重大な意味が含まれている。それは我々が日々無意識に行っている現実把握は、すべてこのような認識作業によって行われているのであり、象の全体像の把握のごとく、同様な「不完全」な現実把握が、我々の周りで数限りなく発生していることを意味するからである。
我々はこのような不完全な認識作業により「リアリティ」としての現実を「バーチャル」としての想像的現実に置き換えてしまっている。
リアリティとしての現実が「実像」とすれば、バーチャルとしての現実は「虚像」である。
人類はこの現実世界に顕れてより、このような認識作業を限りなく発展させ、現在我々が目にする膨大な「認識体系」を構築したのであるが、現代人はこうして構築された膨大な認識体系を基にして、リアリティとしての現実をバーチャルとして想像的現実に置き換えているのである。
ここまで想像的現実が「巨大化」すると、その虚像を実像と錯覚するのは当然であり、その実像を疑う人が異端視されるのもまた必然の帰結であろう。
21世紀を迎えた現在、世界は情報化時代と呼ばれる現実世界に突入しつつある。情報化とは、リアリティとしての現実をバーチャル化させた人間意識の認識力を、コンピュータに置換えて、さらに「パワーアップ」することに他ならない。
人類が以上の認識作業の不完全さ、危うさを忘れ、かかる現実の認識化に奔走するならば、その時、リアリティとしての現実はすっかりバーチャルとしての想像的現実に置き換えられ、我々の周りから跡形も無く、現実は消滅するであろう・・。
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