では現実世界を確保し、現実を消失させない保証はいかにして得られるのか。
まず第一に考えなければならないことは、生身の現実(リアル)はいかなる手段をもってしても100%のデータ化できないことを念頭に置くことである。
迫真のデータ化によって構築された情報であっても「事実は小説よりも奇なり」であって、テレビニュース、新聞報道、公告宣伝・・等々は事実そのものを伝えるものでないことを前提とすることである。これらの情報のすべては、現実世界の万物事象を人間が認識能力を使って編集したデータ(写真、文章・・等々)で描写した、言うなれば現実の投影像であり、現実そのものではない。
多くの現代人はこれら仕組みで構築された現実の「投影像」に、ある時は恐怖絶望し、またある時は狂喜乱舞する。だがこれらの投影像はすべて、かかる現実世界の「事実の実像」ではなく、その事実を情報化した編集者の編集意思によって操作された「事実の虚像」である。現実世界の事実の全貌などは、決して人間の不完全な認識などで把握できるものではなく、宇宙ゆらぎの混沌に包まれた、得体の知れない「何ものか」なのである。
情報化技術が進歩発展した現代社会では、この現実世界の情報データ化はさらに巧妙化し、余程の鑑識眼をもつ人間でなければ、かかる「事実の虚像転換」を見抜くことはできない。
だが現実世界の実体を知悉した人間にとっては、これらの事実の虚像転換は子供騙しのできの良くない物語と同じである。
なぜなら現実世界とは過去と未来が繰りたたまれ、あらゆる可能性が内蔵された曼陀羅世界であり、事実(発生事象)は宇宙ゆらぎに揺らめく、可能性の確率でしかない。
可能性の確率にゆらぐ曼陀羅世界においては、単にひとつの編集基準によって情報データ化された「現実物語」などは、できの良くない子供騙しの「おとぎ話」のようなものであると言っても過言ではないのである。
現実の正体とは決して人間が創った情報化技術などによる情報データ化などでとらえられるような単純なものではなく、過去と未来の狭間で変幻自在にゆらぐ「ミステリアス」なものである。換言すれば、人知で至ることができないことこそが、現実の現実たる所以でもある。
情報化時代に生きる我々としては、この現実の情報データ化処理に対して、基本的不可能性を充分に理解する必要があるとともに、また提示された現実の情報データをそのままうのみにするのではなく、充分に疑ってかからなくてはならない。
情報データ化が進歩していなかった時代における現実世界への対応姿勢は「信じるものは救われる」であったが、現在のように情報化技術が進歩し、情報データ化がかくも巧妙になった時代においては「疑うものは救われる」が妥当であろう。
|