暗在系から明在系へ象出した現実世界の中において、人類のみが認識能力を発達させ、発展させて、かかる現実世界を編集することを可能にした。
認識による現実世界の編集とは「現実のデータ化」を意味し、現実世界のあらゆる万物事象はデータ(数値)で表現されることに至る。
現在、我々人類が遭遇している情報化時代とは、まさにあらゆる現実をデジタルデータ化する試みに他ならない。
コンピュータ技術を基とした情報化技術(IT技術)の発展とは、この現実のデータ化に拍車をかけるものであり、今後の社会に多大な影響を及ぼすであろう。
かかる影響で最も重大なものは「現実の喪失」である。
現実のデータ化が進行するに従って、我々人間は生身の現実を「現実そのもの」としてとらえるよりも、データとしてとらえることを優先するようになる。データとは生身の現実に対する我々人類が行った認識による編集結果であり、言うなれば「現実のぬけがら」である。
例をあげて述べれば、我々は現実世界で実際に起きる日々の事件を、テレビ、新聞、インターネット等の「情報」によってとらえる。
だがこれらの事件情報データは、現実世界に起きた事件を各編集者の認識によって編集した、言うなれば「構築された事件」であり、生身の事件そのものである「発生した事件」ではない。
同様の構図は、この現実世界のありとあらゆる場所で、かつありとあらゆる事柄において、我々の自覚症状なしに拡散浸透している。現実の喪失とは、このように潜在的に進行して行くのであり、人類にとって実に恐ろしい「慢性的精神障害」と言わなければならない。
その精神障害の病状は、例えて言えば、目の前に咲く現実(リアル)の花が、写真という情報データ化された仮想(バーチャル)な花に置き換えられ、その仮想(バーチャル)な花が現実(リアル)と化し、現実(リアル)の花が仮想(バーチャル)と化すような転倒現象である。
この現実(リアル)と仮想(バーチャル)の転倒現象が情報化時代に生きる人類にとって、最も顕著な精神的特徴となって行くであろう。
これらの転倒現象は我々を非人間化する。この現実世界に生きる人間以外の他の生物が、従来通りの現実世界に留まるのに対して、人間のみがこの現実世界から遊離して行くのである。
先端科学はクローン技術を開発し、生物自らのコピー生産を可能にした。それはワープロでの文章データの複製(コピー)と同質等価なものであり、人間自らが自分自身を模造品にすることに他ならない。
科学の視点は客観的な「神の目」であるとされるが、今、人間自身が神になろうとするかのようである。人類は自らが神になることで、この現実世界から人間自身を退場させようとするのか・・?
最近巷で言われる「コンピュータおたく」とは、このような人間喪失の風景であろう。コンピュータおたくは、現実世界に生きている人間ではなく、コンピュータという仮想世界に生きている人間であり、彼等にとっての現実とは、コンピュータの中に仮想として構築された世界であり、現実に彼等の回りに展開されている現実世界は仮想世界でしかない。
これらは笑える状況ではなく、我々多くの人間が「テレビおたく」であり、「新聞おたく」であり、雑誌や書籍などの「活字おたく」であると言っても過言ではない。
このような仮想世界の中で、我々人間が行う生活や人生とは、いったいいかなるものであろうか・・?
このよう情報化が発展する以前の(現実世界の編集データ化が発展する以前)人間には、想像したり幻想したりする自由がまだしも確保されていた。しかし、現実世界が情報データ化された現在においては、その想像や幻想さえも、喪失しつつある。
人類が出版した書物の数は今や天文学的な数にのぼり、ありとあらゆる出来事、物語等々が文章データ化されている。またそのあらゆる出来事、物語等々を映像データ化した映画等々の情報伝達手段は、我々にありとあらゆる想像世界と幻想世界を直接視覚的にかいま見せてくれる。このような現実世界の情報データの氾濫は、もはや人間自身の想像力を凌駕する域に達しつつある。
もはや人間として行う日々の営みの中に「新規性」は消滅し、それらはかって読んだ本の世界の繰り返しであり、かって見た映画のものまねでしかない。
換言すれば、それはかって上演された演劇の再演である。
もしこの演劇に意味があるとすれば、それは、より完璧に、より現実(リアル)に、演じようとするこの演劇の演技者としての優劣でしかない。筋書があらかじめわかっている演劇の中での演技者の立場こそが、現代人の偽らざる姿である。
現実世界の中には、もはや新たな発見の喜びも、未知なるものとの遭遇に胸を高鳴らせる感動とてない。来る日も来る日も、かって編集データ化された演劇の再演を挙行する演技者の人生とは、ただ単に生き続けることしか他に意味が残されていない。
現実世界のさらなる情報データ化こそが、これから進展するであろう情報化社会の実像であるが、その社会の中で、現実(リアル)が現実(リアル)として確保される保証も、人間が人間として確保される保証もともにない。
それ以上に、このままでは現実世界から現実(リアル)が消滅し、結果として我々自身さえも、この現実世界から消滅しかねない危険さえ待ちうけている。
危ういかな人間である。
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