Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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釈迦の風景
 仏陀とは「目覚めた人」を意味する言葉である。古代インドの哲人、釈迦ことゴーダマシッタルダはいったい何に目覚めたのか・・?

 「リトルブッダ」という映画では、菩提樹の下で瞑想していた釈迦が、通りすがりの人が投げかけた「張りすぎた弦は切れてしまい、緩み過ぎた弦は音が出ない」という言葉で、深い悟りに至る。
 彼は物事の両極端はともに悟りには至らぬ道であり、その間にある「中庸」こそが、悟りに至る道であることに気づいたのである。
 もっとも、厳しい修行に修行を積んで釈迦が悟った中庸とは、我々が日頃言葉として理解する中庸ではなく、彼にしか解らない深い意味での中庸であろうが・・。

 弦の振動は「定常波」と呼ばれる。リトルブッダの話は、構造の対称性と運動の対称性を、ともに具備する「もの」が波動であるとした、私の直観にも大きな啓示を与える。構造を空間と言い換え、運動を時間と言い換えると、構造と運動の対称性とは「時空間の対称性」を意味する。そして、この波動の基本形が、かかる弦振動から顕れる定常波である。

 時空間とは我々が生きるこの世(現実空間)であり、釈迦はこの世の真理を得ようと修行したのであり、その釈迦の悟りの最終過程で、この「弦振動」が顕れたことに、心理学者ユングが言う共時性での「意味ある符号」を感じさせる。かかる弦振動の直観から啓示された、彼の次なる直観がその弦振動に顕れた「中庸」である。

 私が言う「Pairpole」とは、宇宙の根源的対称性(絶対的対称性)であり、その絶対的対称性が崩れる空間は、絶対的対称性の中間に在り、その空間を私は「Pairpoleの狭間」と呼ぶ。このPairpoleの狭間は、釈迦の言う中庸と等価概念である。

 また編集工学研究所を創始し、この現実空間を「エディットリアリティ(編集的現実)」と表現する松岡正剛氏の言う「物語の元型」という概念も、かかる中庸と等価である。
 物語の元型とは、あらゆる物語が、ふたつの極の間に引かれた一本の線という基本的構図をもち、一本の線とは両極を隔てたひとつの川であったり、ひとつの丘であったり、ひとつの国境であったり・・等々を意味し、その川や丘や国境等々を舞台にして、物語が構成されるという考えである。

 私の言う宇宙の根源的対称性「Pairpole」から顕れる波動性の動態を述べる「Wavecoil」から説明すれば、釈迦の言う中庸とは、ひとつの波に顕れる「陰から陽への変節点」と「陽から陰への変節点」の2つの変節点の状況である。例えて言えば、一年の季節波動である春夏秋冬であるところの、「春」と「秋」の2つの季節変節点が「中庸」であり、釈迦の言う「両極端」とは、「夏」と「冬」という2つの季節変節点がこれにあたる。また一日の時刻波動である朝昼夕夜であるところの、「朝」と「夕」という2つの時刻変節点が「中庸」であり、「両極端」とは「昼」と「夜」という2つの時刻変節点がこれにあたる。

 Pairpoleの狭間とは、かかる「中庸の2点」であり、Pairpoleとは、かかる「両極端の2点」である。
 Pairpoleの狭間(中庸)は、宇宙エネルギが活動する空間(対称性が破れている空間)であり、松岡氏の言う物語の元型で言えば、「物語が発生する空間」である。またPairpole(両極端)は、宇宙エネルギが保存されている空間(対称性が成立している空間)であり、物語の元型で言えば、「物語の背景を成す空間」である。

 以上の態様を、ニュートンの運動法則(運動方程式)で述べれば、Pairpole(両極端)とは「位置エネルギ」の状態であり、Pairpoleの狭間(中庸)とは「運動エネルギ」の状態であると換言される。例えて言えば、位置エネルギとはダムに蓄えられ水の状態であり、運動エネルギとはダムから落下し水車を回す水の状態である。同じ水ではあるが、発現するエネルギ態様が異なる。

 この世(現実空間)の本性が、万物流転、栄枯盛衰の「流動性」であるとするならば、この流動性こそ、Pairpoleの狭間(中庸)に発現する運動エネルギの態様であり、Pairpole(両極端)こそ、その運動エネルギに転換される前に、エネルギ保存されている位置エネルギの態様である。
 また物語の元型で考えれば、エネルギが保存されていた物語の背景構成(位置エネルギ)から、エネルギが活動する物語の進行展開(運動エネルギ)が発現し、ひとつの物語が構築されると述べられる。

 Pairpoleの狭間に発現した運動エネルギは、やがては再び安定したPairpoleでの位置エネルギに回帰する。つまり、物語の進行展開は、やがては再び安定した物語の背景構成に回帰して行く。この無限循環構造がとりもなおさず、構造と運動の対称性としての「波動性の本質」に他ならず、またこの位置エネルギと運動エネルギの無限循環態様こそ、運動方程式における「エネルギ保存則」の本質に他ならない。

 釈迦が悟った「中庸」とは、おそらくこの世の万物事象が背景構成(Pairpole)から進行展開(Pairpoleの狭間)を経て、再び背景構成(Pairpole)に回帰する、無限連鎖の態様ではなかったか・・、彼はかかる直観を与えた「弦振動」から、この世の根源である波動性の本質を見抜いたのではなかったか・・と思われる。

 この弦振動こそ「宇宙ゆらぎ」の根源であり、この世のあらゆる可能性の象出に向けて万物事象は限りなく振動しているのである。

 つまり、釈迦が厳しい修行の果てに行着いた悟りとは、可能性の確率で振動し、ゆらぎ、キラキラとリフレクトする「曼陀羅世界の風景」であったと言うことができる。

2003.7.31

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