人間の価値が決定されるのは、一瞬の刹那であり、その刹那の決断が、その人間の価値を永遠に定着させる。
数十年に渡る、くだくだしい思考などは、この刹那の決断からすれば、塵芥に過ぎない。
現代人が身を養生することにのみ頭を悩まし、自己人生が、この刹那の決断によって、いかようにも変えうるという事実を見失って久しい。
決断が状況によってころころ変わるなどということは本来はあり得ないが、現代人の決断は、状況に応じて右に左に変わっても、自己の保身が達成されれば、正しいとされる倫理観が大勢を占めている。
この倫理観は人間目的が、単に生きのびることであるとした場合にのみ、妥当性をもつが、単に生きのびるだけの人生とは、いったいどのようなものであろうか・・?
人間はいずれは、誰ひとり例外なく、死ぬ運命にある。であれば生きのびる人生とは、ただ単に死ぬための人生でもある。
波動方程式の波動関数の収縮により、全体宇宙から実在化する刹那宇宙(現実世界)は、古人が言ったごとく「浮世」である。
この浮世に顕れた人間が、その実存性を確立しようとするならば、常に未来に向かって、意識的観測を継続し、ともなった決断を継続しなければならない。
決断は実在化する現実世界に明確な変化をもたらす。
現実世界に変化を及ぼすことが、浮世に顕れた人間の存在目的であろう。決断しない人生とは、結局のところ刹那宇宙の傍観者でしかなく、次々に実在化する現実世界にとってみれば、存在しても存在しなくても、何ら相関を及ぼさない。
多くの現代人が、この傍観者に逸している状況は、まことにもって、もったいない。
現代人は身の回りに起きる変化を常に恐れていて、できうるなれば変化などは身の回りに起こってはほしくはないと考えている。さらに、その変化に対して何らかの決断が要求されれば、できるだけ結果が曖昧になるように決断する。
くどくどと悩みぬいたあげく、自らの決断が、現実世界の実在化に影響を及ぼすことを極力避けるように決断するのである。
現代人が望む理想の人生とは、結局「可もなく、不可もない」人生であるが、その可もなく、不可もない人生に徹することができれば、これはこれでまた英断であり、それなりに主体性は確立されるであろう。
しかし、事実は常に自己の不遇を恨み、他者の成功を妬んでいるのであり、まことにもって始末におえない。決断する勇気も、また決断しないことに徹する勇気も、ともにないのである。
全体宇宙からの現実世界の実在化に参加することを、自己人生の目的とするならば、間髪を入れずに決断することである。決断こそが、その人間の価値を決定し、永遠の時空に足跡を記す。
結局、決断なくして、何の人生かということである。
人は決断を求め、その決断によって、この浮世の千変万化を楽しむのであり、もってその時に、人間存在の尊厳が、時空のカンバスに永遠に刻まれるのである。これを「詩」と言わずして、「絵」と言わずして、何と言うか・・?
つまり、人生は決断が彩なす風景なのである。
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