気象庁が台風の進路を開かれた扇形でしか予測できないのは「ゆらぎの動特性」に起因する。
ゆらぎの動特性とは、ある種の「確率的特性」であり、台風の進路はおおよその確率でしか予測できない。その予測確率が開かれた扇形の角度範囲であり、実際の台風はその角度範囲内の、たったひとつの進路を辿って進むことになる。また、台風の進行にともない、その進路予測の角度範囲も、「時々刻々」と変化していく。
この確率的変動が「ゆらぎの本質」である。ゆえに台風の進路と同様に「あらゆる未来」は確率でしか予測できない。
つまり、台風や未来は、扇形に開かれた角度範囲内のあらゆる方向に進むことを、試そうとしているのである。
それは前述した「盲人の杖」の働きと何ら変わるものではない。
以上の状況を考える時、物理学者ファインマンが提唱した「歴史総和法」に思いが至る。ファインマンは、現実世界で展開される歴史は「宇宙があらゆる可能性を試した結果として顕れる」と考える。盲人の杖の働きと同様に、宇宙はあらゆる歴史を試行錯誤した上で、たったひとつの歴史的事実を、現実世界として、この世に実在化させるのである。
まさに、歴史総和法の彼の主張は、波動方程式の波動関数の収縮により、全体宇宙から、たったひとつの現実宇宙(現実世界)が、この世に実在化する状況を述べるとともに、その実在化の過程で、宇宙が体現する「ゆらぎの動特性」を述べているかのようである。
確率性とは、換言すれば、可能性であり、宇宙はあらゆる可能性を試すがゆえに、未来が確率的となり、この世の万物事象にゆらぎが発生するとも帰結される。
一般的人間の倫理観は、ゆらぐことを嫌う。ゆえに、古来より、人間の倫理観は、ゆらぐことなき「確固たる信念」を推奨してきたのである。
この世で発生する事件や事象に応じ、とまどったり、決意がぐらついたりすることは、人格が完成されていない証左であるとして、叱咤される。
しかしながら、宇宙が示す、これらの「ゆらぎのふるまい」を考えれば、まったく異なる倫理観が構築される。
つまり、予測不可能な未来に対しては、「盲人の杖」のごとく、あちこちを叩くことこそが、最善の対応策なのであり、事に応じて、確固たる信念をもたず、ふらふらしている人間の方が、未来予測に対しては、適正な対応をしているとする、新たな視点からの倫理観の発生である。
この倫理観を好意的に考えれば、確固たる信念をもたずに、ふらふらしている人とは、あらゆる可能性を試そうとしている人であると位置づけられ、逆に唯一絶対の信念をもって生きる人とは、あらゆる可能性を遮断してしまっている人であると位置づけられる。
つまり、従来の倫理観が嫌う、「戸惑い」、「よろめき」、「遊び」・・等々の「ゆらぎのふるまい」こそが、可能性に富む、豊かな人生を構築することになるのである。
また、ゆらぎの本質は確率であるから、「遊び」には、確固たるものを持ち込んではならない。遊びの本質は融通無碍であり、可能性の確率としてとらえなければならない。
以上の上で、だから「人生はギャンブルだ」と即断し、パチンコや競馬に、ゆらぎの本質である「確率」を適用させ、「私は可能性の人生を体現している」と考えることは、本論とは「別次元」のことであり、一考を要することである。
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