現代人は物質的に見れば大富豪であろうが、精神的に見ればみじめな破産者のごとくである。
現代科学は我々の周りに実在化した万物事象を理性で分析し、解剖し、我々の生活のために役立つ道具に変換した。万物事象に対するこの科学のアプローチ手法の絶大な成功は、「科学的合理主義」という、唯一絶対的な概念を、現代人の精神世界に強烈に植え付けることにもまた成功した。
現実世界を客観的に冷ややかに理性をもって眺めることが科学の基本姿勢であり、その中に自己の主体性を差し挟む余地はない。あくまで自己を空しくし、対象である万物事象を客観視しなければならない。
我々はこのような科学的合理主義をもって、あらゆる万物事象を利便的道具に変換し、現在、目にするごとくの、豊饒な物質文明社会を、地球という惑星上に築いたのである。
しかし、物質文明社会の大成功の裏で、人間自身の主体性の喪失という、精神文明の衰退が、密かに進行してきたことを見落としてはならない。
自己を空しくし、現実世界の万物事象を客観視する姿勢は、必然的に「これ」という自己基準でものを考える視点から、「あれ」という他者基準でものを考える視点に、視点が転換することを強要する。
「これ」から「あれ」への視点転換で確立される主体性とは、「あれ基準」で構築された偽善的主体性であり、自己を主体とする「これ基準」で構築される真の主体性ではない。
言うなれば、他者を主体とする「従属性」である。
科学的合理主義を信奉する多くの現代人が主張する「主体性」とは、実は他者への「従属性」に他ならない。
これらの従属性は、現代社会のそこかしこに顕れている。それは社会システムへの従属であり、権力への従属であり、金銭への従属であり、土地や物への従属であり・・等々である。
「これ」以外の「あれ」への従属は、また隷属であり、追従であり、服従である。
ゆえに、現代人は華やかな物質文明社会に生きて、生活を豊饒な利便性物質で飾り、自由人であると胸を張って微笑んではいるものの、その微笑みに、どこか薄ら寒い、虚しさが漂うのである。
現代人は物質的には大富豪に近づきつつあるとともに、また精神的には破産者へも近づきつつある。
それは紙の表裏の構図であり、また物質と精神の「Pairpole」でもある。
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