Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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可能性の海
 デビット・ボームの言う暗在系と明在系の構図を、シュレジンガーの「波動方程式」で考えるとどうなるのか。

 波動方程式は近代科学のあらゆる分野に適用される最も基本的な科学方程式である。その方程式の中で特徴的なものは「波動関数」と呼ばれる関数であり、波動関数はまた、量子論の「観測問題」と密接に結びついている。

 物質は「波動性」と「粒子性」という2つの性質を持っているが、同時にこの2つの性質を観測することはできない。波動性を観測した瞬間に、粒子性は消え、粒子性を観測した瞬間に、波動性は消えてしまう。

 例をあげて述べると、ある友達が私という「物質」を観測する場合、私が松本のどこかで目撃(観測)されるまで、私という物質は波動性をおびて、波のように松本の全体空間に広がっている。しかし、松本のどこか(例えば駅前)で、その友達に目撃(観測)されるやいなや、波動方程式の波動関数は収縮し、波動性として霞のように松本の全体空間に広がっていた私という物質は、一個の粒子性に収縮(固定)する。
 駅前で目撃されるまでの私は「松本全体のどこにも居て、かつまた、どこにも居ない」状態であり、駅前で目撃されるやいなや私は「駅前以外のどこにも居ない、確定された、たった一個の現実世界に固定される」のである。

 波動方程式の波動関数は、観測される度に収縮を起こし、次々と宇宙を確定させ、固定させる。

 松本の駅前で観測される以前の私(つまり、波動関数が収縮する前の私)は、松本全体に霞のごとく広がっている波動性として存在しており、この状態が「全体宇宙としての暗在系」である。また、駅前で友達に目撃(観測)された以後の私(つまり、波動関数が収縮した後の私)は、たった一個の粒子性として存在しており、この状態が「現実宇宙としての明在系」である。

 ここでひとつ重要な問題を考えなければならない。
 それは駅前で目撃した目撃者(観測者)が、私の友達であった場合のみ、波動関数は収縮するのであって、その目撃者(観測者)が、私を知らない人であった場合、例えば犬や猫であった場合は、波動関数は収縮しないということである。
 この場合、私は依然として、霞のごとく、松本の全体空間に広がったままである。

 このように、宇宙を確定し固定する波動関数の収縮作用には、意識作用が深く関係している。つまり、「私という存在を識別できる意識」を持った目撃者(観測者)が観測しないかぎり、宇宙を確定する波動方程式の波動関数の収縮は起きないのである。

 以上の宇宙生成メカニズムを考察すると、「波動関数の収縮」と「人間意識の意識化」は同義語のように思われる。つまり、「我々の周りに広がる現実宇宙は、我々の意識そのものである」という考えである。

 それはまた、現象学を創始した哲学者フッサールの言う「意識の地平」と同義的である。フッサールは我々の見る現実世界(現実宇宙)は、我々の意識が、編集した世界(つまり、意識の地平)であるとする。
 縄文人のディオニュソス的意識(呪術的意識)が、編集した現実世界とは、「山には神仙が、森には精霊が飛び交う情意的世界」であり、一方、現代人のアポロン的意識(科学的意識)が編集した現実世界とは、「標高2000mの山と、面積10Km平方の森が広がる物体的世界」である。

 それはまた、編集工学研究所を主宰する松岡正剛氏が言う「エディット・リアリティ(編集的現実)」と同義的である。

 これらの現実世界生成メカニズムの態様を考えると、人の一生とは、結局「その人が意識したもの以上のものには決してならない」という帰結を得る。また、これを逆に裏返せば、その人の抱く意識によっては、あらゆる現実世界が、その人の一生に訪れることになる。

 つまり、暗在系とは「可能性の海」のようなものであり、我々の意識が及ぶかぎりの、あらゆる可能性が、この海に含まれている。
 世で発明家と言われる人々は、この可能性の海である暗在系から、たぐいまれな創造的意識により、この現実世界に事物を実在化(投影)させる人々であり、また世で宗教家と言われる人々は、実在化した現実世界である明在系から、事物を暗在系である可能性の海に回帰(注入)させる人々であると位置づけられる。

 この回帰(注入)を具体的に言えば、意識の根源である、区別、差別の認識を消滅させることであり、区別、差別の意識が消滅すれば、宇宙を確定し固定させる波動方程式の波動関数は収縮しなくなり、実在化した現実世界としての粒子性は消滅し、現実世界は時間・空間・物質が渾然と一体化した波動性に回帰することになる。

 つまり、人間意識から区別や差別の意識が消滅すれば、もはや波動関数は収縮せず、したがって、我々の回りに実在化していた現実世界としての万物事象は消滅する。

 この消滅は、俗に言う、「この世の消滅」ということであり、それはつまり、「人間の臨終」という事実にかぎりなく相似してくるのである。

2003.6.16

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