実在としての刹那宇宙は「現在」と呼ばれるが、直接、手に触れることができる現在が、数刻の後に、手に触れることができない過去となり、手に触れることができなかった未来が、手に触れることができる現在となるのは、なぜか・・?
この宇宙構築メカニズムには、「時間」という、かいもく得体の知れない「幽霊」のような存在が介在している。その幽霊のような「時間の実体」をとらえた人間は、未だ存在しない。
我々は時間を、過去から未来に向けて、水が流れるごとく連続して流れているように感じている。
だが、物理学者デビット・ボームは、時間は過去、現在、未来のように、分離した断片の連続ではなく、ひとつの「宇宙的時間」の中で、その断片どうしが、互いに相関していると考えている。
今日の量子論では、過去による現在への影響について、何ら説明することができない。量子論は、限られた「ある一瞬だけ」を扱い、それを観測するのみである。
ボームは、現在という瞬間が、宇宙全体の「投影(プロジェクション)」であるという考え方で、量子論における、この時間に関する不足部分を補おうとした。彼は、宇宙全体の中に包みこまれていた「ある局面」が、現在という瞬間に開かれ、そのある局面が、現在になると考える。そして次の瞬間も、同じように全体の中に包み込まれていた「もうひとつの局面」が開かれるというように考えるのである。
彼の主張で重要なことは、それぞれの瞬間は、前の瞬間と似ていて、しかも若干異なっているとしていることである。これを彼は「注入(インジェクション)」という言葉を使って説明する。
つまり、現在という瞬間は、全体宇宙からのある局面の「投影」であり、投影された現在は、次の瞬間には、全体宇宙の中に、逆に「注入」され返す。ゆえに、全体宇宙から次ぎのある局面が、現在に戻ってきた時に、その前のある局面が一部含まれることになると考えるのである。このメカニズムが、ひとつ前の瞬間である、ある現在と、次の瞬間である、ある現在との間に、「因果性」を発生させ、時間の経過を我々に感じさせるのだと言うのである。
例えて言えば、それはちょうど浜辺にうち寄せる波のごとくであり、我々は現在という浜辺に立っている。海は宇宙全体であり、すべての秩序が内蔵されている。だが我々は、その内蔵秩序の姿や形を知覚できない(彼はそれを暗在系と呼ぶ)。その全体宇宙から、瞬間、瞬間、波が押し寄せてくる。その波がうち寄せることで、我々は波を現実として知覚でき、「宇宙存在を実感」する。だが、いったん浜辺にうち寄せた波は、再び全体宇宙へと戻っていく。そのときに、いったん浜辺にうち寄せたことで、現実の世界に顕した情報もまた、その波の中に含まれて全体宇宙に戻っていく。ゆえに、全体宇宙に、その情報が含まれる(つまり、注入される)。注入された情報は、次に全体宇宙からうち寄せられる(つまり、投影される)波の形などに影響を与える。
彼は宇宙全体の投影である現在を、運動としてとらえる。その運動が、現在という世界に、事物を実在化するのである。その実在化運動が継続することにより、時間軸が発生し、時の経過を、我々の意識に、感じさせるのである。
要するに、すべてがそこから生み出される「可能性の海」のような全体宇宙があり、そこから刻々と、現在に向けて、事物が、我々の意識に認識できるような形で、実在化してくると、彼は言うのである。
彼の言う暗在系は、時間・空間・物質が「混沌」として「一体」となっている。それがどのようなものか、人知をもってうかがい知ることはできない。それは「死後の世界」も、「生前の世界」も、ともにうかがい知れないのに相似する。
この生死の世界で考えれば、「生きている人生」そのものが「現在」である明在系であり、生前と死後の世界が「過去と未来」である暗在系と置き換えることができる。我々の実人生は、暗在系である宇宙全体から「投影(プロジェクション)」された明在系であり、それは「誕生」にあたり、明在系から暗在系である宇宙全体への「注入(インジェクション)」が「臨終」にあたる。
死後、我々は「永遠の眠り」につくと考える。だが死後に、時間が存在するか否かは不明であり、永遠という概念も通用するか否か不明である。また60年、70年という時の経過が、長いとか短いとかも、断言することはできない。かの太閤秀吉さえも、自分の人生を省みて、「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことも夢のまた夢」と言っている。1日の長さを一生と意識する人もいるし、100年の長さを1日と意識する人もいるのである。
最近の動物学では、動物の心臓の脈動数の寿命は、皆同一であることを導き出したという。動物は皆、心臓の脈動数をカウントするカウンターを持っていて、その脈動回数を数えているのだそうである。
ハツカネズミの心臓の脈拍速度は人間よりも速く、亀の心臓の脈拍速度は人間よりも遅い。この脈拍速度から考えれば、ネズミの一生と、人間の一生と、亀の一生において、いずれが長いか短いかを単純に比較することはできない。ネズミや亀は、人間のように時計を持っているわけではなく、ネズミ時計や亀時計の速度がいかなるものかは、彼らに聞かなければ、かいもく解らないのである。もし仮に、それらの時計の速度が、それらの心臓の脈拍速度に比例するものであるとするならば、時の経過意識は、ネズミ時計も、亀時計も、人間時計も、みな同じであるように考えられる。
つまり、人間が感じる一生の長さも、ネズミが感じる一生の長さも、亀が感じる一生の長さも、ともに同じである。
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