自己変革には非常に大きなエネルギを必要とする。
自己変革とは換言すれば、「日常性からの脱皮」である。日常性とはまた習慣性とも言い換えられるが、この習慣から脱皮するには多大なエネルギが必要とされるのである。
だが、その脱皮がなされなければ、未来を創ることなどできない。現れるのは、習慣性の延長である「日常性未来」である。
勿論、その日常性未来を、良しと納得している人に対しては、もはや何も言うことはないが、問題はその「惰性の未来」を、良しとしない人である。
かかるこのような人が、人生に意味を見出すためには、いかなることをすればよいのか・・?
漫然と放置すれば、人間の生活は習慣化するわけであるから「放っておかないこと」が、まず出発の第一歩である。習慣化を放置しないとは、換言すれば、行動を選択する意志をもつことである。また、この時の選択基準は、より困難な道を選択するものとしなければならない。なぜなら、習慣とは多く惰性であり、惰性とはより努力しないという選択基準によって、選択される行動であるからである。より困難な道を選択することは、大きな勇気を必要とするが、この勇気こそが、未来の扉を開く「鍵」となる。
その勇気の内容は、例えば失恋をした人を題材にして述べると以下のようになる。
一般的に、失恋した多くの人は、感傷にひたってしまう。なぜなら、その感傷にひたっている状態が、苦痛ではなく、ことさら快く、楽だからである。逆に、その感傷にひたることを拒絶し、顔を上げ、胸を張って、立ち上がり、歩き出すことの方が、何倍も勇気を必要とし、苦痛をともなうものである。
悲しみに涙する人が、スキップする勇気とは、いったいどのくらいのものなのかと考えれば、この勇気の意味は了解されるであろう。
結局、未来を創る勇気とは、このような勇気なのである。
このような勇気をもって、習慣化と日常性から決別し、自律した意志で立ち上がった人間の姿こそ、高貴で、誇りに満ちたものはない。
人間の尊厳とは、まさにこの勇気を奮い立たせ、困難の道を切開いて、未来を開拓したところに発現するものである。
しかして、人は悲しみに涙しながら、笑顔でスキップして、この世を生きていかなければならないのである。
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