なぜを突きつめると、最終的にはニヒリズムに帰着する。
なぜ生きるのか・・? なぜ仕事をするのか・・? 等々。
これらの「なぜ」を人は常に問いつめずにはおれないが、ようようその答えらしきものに到達し、その答えを口にしたとたん、「だがしかし」と、再び「次のなぜ」を問わずにはいられない。
してみると、これらの「なぜ」には、最終解答が存在しないようにも考えられる。これらの「なぜ」は、あるいは「人生の余興」のようにも思えてくる。
人が仕事をするのは、何も理由があってするのではなく、人が生きるのは、何も理由があって生きるのではなく、「ただ仕事をして」、「ただ生きている」という解答が、実は最も「現実的」なものなのではないか・・と思えてくるのである。
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