ニーチェが予言した「人間モデル末人」の出現を促進させるのは「生活の習慣化」である。つまり、生活の「マンネリ化」である。
波動理論を構築した物理学者シュレジンガーは「同じことの繰り返し」は、やがて、そのこと自体を、人間意識の「意識下へ埋没させる」と言った。
同じことの繰り返しでないこととは、一般に「変化」という言葉で表現される。つまり、人間が意識するのは、この「変化」である。
この意識作用は、生物である人間が生存するために、生まれもって備わっている重要機能である。この意識作用は、あらゆる物事に働く。
毎日通う会社への道筋は、いつしか意識せずとも、行けるようになり、それとともに、その道筋の両側に広がる風景もまた、いつしか意識下に埋没し、意識しなくなる。
生活も同様であり、同じことを繰り返していくうちに、いつしか生活そのものが無意識化し、何も考えないようになる。この状態を一般に「習慣化した」と言うのである。
この意識作用は、まことに便利な作用である。この意識作用が無かったならば、人間はあらゆることに意識が振り向けられ、はてはノイローゼになるのが必定である。
しかし、この便利な意識作用は、同時に副作用も発生させる。この副作用が、生活の習慣化であり、マンネリ化であり、これにより人間は意識すべきことも意識しなくなるのである。
我々が無感動、無気力な人間モデル末人に陥らぬためには、この副作用を解消しなければならない。解消する方法は、生活や行動の「パターン」を変えることである。波動理論的に表現すれば、波形を変えることであり、繰り返し波形である「サインカーブ波(正弦波)」の波形を変えることである。分かり易く言えば、「波長」の異なる人とつき合うことであり、たまには、通勤ルート、生活の様式、行動の様式を変え、「波形」を変えることである。
しかしながら、この習慣化が、生存における不可欠な機能でもあることも、同時に考慮しなければならない。あまりに激しい波形変化の連続では、顕在意識は休むいとまもなく、ノイローゼ症状に陥ってしまうし、かといって、あまりに定まった波形では、顕在意識は眠ってしまい、何も意識しなくなり、無感動、無気力症状に陥ってしまう。要は、ふたつの意識作用の「バランス」が必要なのである。
だが、いったん習慣化したことを、変更することは、多大な「意識エネルギ」を必要とする。それは煙草を習慣化した人が、煙草を止める場合を想起すれば、よく了解されるであろう。それは、ダイエットしかり、テレビ中毒しかり、アルコール中毒しかり・・しかりであり、これらの習慣化を変更することは「至難の業」である。
また人間が生きるうえで基本とする信条なども、この習慣化に入るかもしれない。おのれの信条に、頑固一徹な人が、その信条を変更することも、また至難の業である。
いずれにしても、これらの意識作用から発生する、生活の習慣化、マンネリ化が、無気力、無感動、無意志の「檻の中の囚人(人間モデル末人)」を出現させることに多大な影響を及ぼしていることに間違いはない。
この人間モデル末人への道を脱し、人間モデル超人への道に転換するためには、まずこの「習慣化を意識」することであり、その方法は「あたりまえのことを疑問に思う」ことである。
この「あたりまえのこと」とは、かっては変化であったものが、繰り返されたことで、顕在意識から潜在意識に埋没してしまったものである。
ニュートンの万有引力の発見は、「どうして林檎は木から落ちるのか・・?」という、あたりまえの問いの追求であったし、私が研究してきたスクエア理論の発見もまた、「名刺はどうして□なのか・・?」という、あたりまえの問いを追求したものである。
人間モデル超人への道とは、還元すれば、このような「あたりまえの疑問」に向かって踏み出す「人間の勇気」に帰着する。それはまた「ニーチェ哲学」においても同じである。
無気力、無感動、無意志の人間モデル末人が眺めるこの世とは、無味乾燥な、一面的な表層世界の風景であろう。すべて「そのようなもの」であり、それ以外の「何ものでもないもの」の羅列であり、そこには「決定されたもの」だけが横たわり、およそ可能性などという、夾雑物が漂う余地さえ残されていない世界である。
すべては科学的測定器で計測され、数値化された無機質世界であり、それはどこか、生命の抜け殻である白骨がいたるところに散らばり、コンクリートブロックだけが空虚に林立する「廃墟の街」のような、空漠たる風景に似る。
一方、人間モデル超人が眺めるこの世とは、あらゆるものが「生き生きと蠢き」、あらゆるものが「曖昧模糊」とし、あらゆるものが「変化の可能性」にゆらいでいる世界である。この世に「決定されたものや、計測されるものなどはひとつもなく」、森の中には「木々の精霊」が、湖面には「水の精霊」が乱舞する風景である。
現代人は「生きながら死んでいる」人間モデル末人に近づいている。いま一度「死にながら生きる」人間モデル超人に向かって、踏み出す勇気を呼び覚まさなくてはならない。
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