Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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檻の中の囚人
 檻の中の囚人とは「現代人」のことである。

 人類は科学を発明し、我々の住む世界を、開発した測定器を使用して計測し、縦横何キロメートル平方という「面積」と、重量何キログラムという「重さ」に還元してしまった。

 以来、かって精霊が住んでいた森は、単なる木々の群生林と化し、水の精霊が住んでいた湖は、単なる水溜まりに変質してしまった。

 確かに科学は人類の生活を便利にし、苦労のない生活を実現した。コンピュータの開発は、人類を月に立たせ、携帯電話やインターネットの開発は、地球上のあらゆる人が、相互に意志を伝達することを可能にした。

 しかしながら、現代人の意識の中に芽生えた、この「空疎な虚無感覚」は、一体「何もの」なのであろうか・・?

 つまるところ、科学が為しえた合理性とは、人間の考え方を「数学」にし、人間の生活を「経済学」にしただけではなかろうか・・?
 かかる合理性から導き出される帰結は、人間社会の「システム化」であり、各々の人間が、そのシステムを構成する「構成部品」に成り下がるのは、また必然の結果である。

 人類は自分たちが創りだした科学によって、自分自身を拘束し、「檻の中の囚人」にしてしまったのである。

 哲学者ニーチェは、100年程前に、科学の発展が行着いた、このようなシステム社会の「人間モデル」として、「末人の登場」を予言した。
 どうやら彼の予言は正しかったようで、このまま進行すれば、末人である現代人は、檻の中の囚人として、やがては静かで、穏やかな死を迎えることになるであろう。だが、その死は「人間の死」ではない。

 ニーチェは、この檻から脱出する「人間モデル」として、「超人」を提示した。

 超人とは、現代システム社会の中で、誰しもが至るであろう末人の人間モデルと訣別する人間像である。超人の人間モデルが目指すのは、人類が創りだした科学的合理性という強力な「麻薬」を断ちきり、それらを足下にひれ伏させる強力な「自制」の獲得である。この力を獲得した者のみが、末人としての死に至る病を克服し、檻の中からの脱出を可能にする。

 空調が施された檻の中の囚人は、時間がくれば食物が提供され、生命を維持するには、確かに快適で、まことに安全ではあろう。しかしながら、その生活は、単なる生物としての栄養補給と快適性の充足だけであり、家畜のごとくに無気力で、無感動な、日常性という惰性以外の何ものでもない。これではたして「人間が生きている」と言えるのであろうか・・?

 人間は「行動への強い意志」と、「情感への溢れる思い」がなければならない。この強い意志と、溢れる思いに裏打ちされてこそ、人はこの世に生きていると断ずることができるのである。

 末人としての現代人は「生きながら死んでいる」と同じ状態にある。人が生きるためには、やはり、ニーチェが言ったごとく「死にながら生きる」超人として生きることが妥当であろう。

2003.5.27

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