絶対的真理は、この世のあらゆるものから独立し、あらゆるものに支配されず、あらゆるものに束縛されない。
世で言う真理が、この世のあらゆるものに従属し、あらゆるものに支配され、あらゆるものに束縛されるものであるならば、その真理は、自己の頭脳からではなく、他者の頭脳から構築された相対的真理である。
他者の頭脳から構築される相対的真理とは、また「社会に迎合する真理」であり、社会に評価されるものこそが、真理であるという「真理基準」に至る。
しかし、この社会評価こそ「あてにならない」ものはない。特に日本社会の評価基準は「ご都合主義」という、時に応じて、いかようにも変化する、まことにたよりない基準で構成されている。このような真理基準から構築された相対的真理が、時に応じて、いかようにも変化する「ご都合主義的真理」となるのは、また当然の結果である。
絶対的真理を追求する学者や研究者が、もしこのようなご都合主義的な相対的真理を追求するようになれば、彼等は真理の「たいこもち」以外の何者でもない。たいこもちとは、宴席に侍り、宴を盛上げ、宴席の主に奉仕し、幾らかのご祝儀をもらうことを生業とする者のことである。
絶対的真理を探求する学者や研究者は、社会の思惑に媚びる「たいこもちの立場」にいるのではなく、この世のあらゆるものから独立し、あらゆるものに支配されず、あらゆるものに束縛されない、社会の思惑から孤絶した「自律者の立場」にいるのである。
絶対的真理を探求する者は、世間におもねってはならず、また媚びてはならない。その依って立つところは、あらゆるものの支配から離脱し、孤絶した、自己自身の「思惟世界」以外にはないのであり、その独立性と自律性から、自己自身が真髄から納得したものでない限り、いくら社会が、その真理を高く評価したとても、絶対的真理にはなり得ないのである。
絶対的真理に立ち向かう学者や研究者は、自己自身の頭脳から発現する、この「思惟世界」と1対1で対峙し、極限まで探求する孤高の精神を失ってはならない。そして、自己自身の中に構築された絶対的真理を、逆に社会に提示しようとするならば、あくまで自身の信念に基づき、自身の言葉と自身の思いで、直截に語らなくてはならない。
絶対的真理の探求者は、それ自身で、堂々とし、悠々とし、何らの装飾、何らの演出、また何らの気負いも必要としない。それはまさに、思惟半跏像「弥勒菩薩」の自在無碍な「思惟の姿」と一致するのである。
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