Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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思惟と実存
 人生の実存性とは何か・・?

 現在の平均寿命で言えば、人生時間は70〜80年といったところであろうか。無という、皆目得体の知れない次元の世界から、時間と空間という、ふたつの次元で構築された、この世に顕れ、地球という惑星の表面を、あちこちとうろうろし、幾人かの人と出逢い、親しくなり、泣き、そして笑い、何事かを為し 、再び無の世界に帰っていく・・。

 我々はこの世(時空間)に、いったい何を期待しているのであろうか・・?

 無に始まり、再び無に帰すのであれば、いかなることがこの世で為されたとしても、無の意味が解明されなければ、「連続性」は遮断され、この世の有である「刹那性」の意味もまた喪失する。

 我々が考えている連続性の意味とは、当の本人の人生が無に帰した後、有として残された他者人生の頭脳に残る記憶の連続性であろう。このような連続性は確かに在るように見える。もっとも連続性などとは言わずに、「永遠性」と言っているのであるが。

 当の本人は、この永遠性に期待し、有の人生の中で、何事かを遺そうとする。その何事かを遺そうとすること自体が、当の本人がこの世に生きる「人生の意味」を構成している。
 だがこの意味は「自己人生にとっての意味」ではなく、自分以外の他者の記憶に影響を与える「他者人生にとっての意味」である。この意味を構築すべく、当の本人は、本人以外の他者にとって意味があることを遺そうと努力するのである。例えて言えば、できるだけ聖人君子として振る舞い、他者に好印象を遺そうとする。

 当の本人の「人生目的」が、単に他者に対する好印象を遺すことであるとするならば、当の本人のこの世での「実存性」はいったいどのようにして確立されるのか・・?

 自身に対する実存性を犠牲にして、自分以外の他者に好印象を遺すこと、言うなれば「奉仕する」ことのみが、当の本人がこの世に顕れた意味であるとするのであれば、あまりに主体性が欠如している。

 苦痛に耐えて努力する刻苦勉励こそが、人間の人生だとすれば、まさにこの世の人間は「殉教者」のようであり、牢獄に囚われ過酷な使役を科せられた「囚人」のごとくである。

 現代人がうつむきながら、暗い顔をして、坂道をあえぎ登るように見えるのはこのような意識メカニズムが作用している故に他ならない。

 現代人がこのような状況に陥ってしまったのは、当の本人の人生の連続性を、本人以外の他者の記憶の連続性(永遠性)に求めたためである。結果として、自己人生の刹那性が喪失してしまったのである。

 この状況を克服するためには、原点に戻り、「無の意味」を正面から解明すること以外に他に方法がない。

 量子論物理学者ディラックは、この無の空間を、虚のエネルギで沸き立っている空間と表現している。彼は有である物質の最小単位(素粒子)が、プラス電荷を帯びた電子と、マイナス電荷を帯びた陽電子の一対の「ペア粒子」で構成されていることを明らかにし、無の空間から、このペア粒子の有が発生する過程において、一瞬間だけ「エネルギ保存則」が破綻することを発見した。
 この世のいかなる場所、いかなる過程においても、成立するエネルギ保存則が、この世の原点である「無からの有の発生過程」においてのみ破綻していることを、どのように考えたらよいのであろうか。まさに「この世は、ただ飯を食って」発生してくるのである。

 虚のエネルギで沸き立っている、無の空間とはいったい何か・・?
 エネルギ法則に支配されない、無の空間とはいったい何か・・?

 この条件に合いそうなものを我々の身の回りから捜すと、「魂」という存在に帰着する。魂を「思い」に換言し、思いを「意識」に換言すれば、意識の速度はアインシュタインの相対論で、この世での限界とされる光速度を軽く越える。思いが一瞬で伝達される状況から考えれば、この速度は無限大とも言える。速度が無限大とは、伝達移動の所要時間が0であることを意味する。つまり、意識は時間に支配されない。
 意識にエネルギ法則を当てはめることはできないが、意識によってこの世に顕れた森羅万象には、エネルギ法則を過不足なく当てはめることができる。
 これらの状況から考えると、「無の世界と意識の世界」は非常に似かよっていることがわかる。これらを整理すると以下のようになる。

 虚のエネルギが沸き立っている無の世界=唯識の世界(思惟の世界)
 実のエネルギが沸き立っている有の世界=唯物の世界(物質の世界)

 結局、この世での自己人生の実存性を確立しようとすれば、無の世界である「思惟の世界」を解明することに行き着く。

 思惟の世界は、前述した人間を殉教者や囚人に貶める「記憶の世界」と似て非なる世界である。人間が自己人生の実存性を確立するためには、自己以外の他者の記憶の世界に好印象を遺すなどという、気休めからは敢然と訣別し、この自己自身の思惟の世界に立脚しなければならない。

 巷間、語られる、この世の人生の実存性とは、「私はかく成功した(それは金銭であり、地位であり)」、「私はかく地球上を歩いた(それは面積であり、距離であり)、「私はかく人間に会った(それは人数であり、個性であり)」・・等々であるが、そのどれもが人間の実存性とはほど遠い存在であり、心の中は「すきま風」が通り抜ける。

 自らの思惟は、この世のあらゆるものを制御し、包含し、破壊し、創造する。自らの意識が、この思惟に至った時にこそ、この世での自己人生の刹那性は連続性を確立し、自己人生の実存性が顕れるのである。

 思惟の人生は、思いの巡り逢いを生み、思いの遍歴として昇華し、「それでは皆さん、いつかまたどこかで・・」という辞世の言葉とともに、永遠性に回帰する。
 そして再び、新たな思惟とともに、いつかまたどこかの世に戻って来るのである。それは未来のこの世であるかもしれないし、また過去のこの世であるかもしれない。この意識メカニズムでは、記憶の世界に好印象を遺すことなど、まったく必要ないのである。

 思惟こそが、この世の刹那性を保証し、自己人生の実存性を保証し、無の世界と有の世界の連続性を保証する。

 また思惟と実存は「Pairpole」であり、粒子性と波動性の二重性のごとく、同時に観測することはできない。思惟性を観測すれば実存性は消失し、実存性を観測すれば思惟性が消失する。般若心経の「色即是空 空即是色」が語るように、「実存性はこの世のどこにもあり、しかしてこの世のどこにもなく」、また「思惟性はこの世のどこにもあり、しかしてこの世のどこにもない」のである。

 この世は「無(思惟)と有(実存)」で構成されたPairpole世界であり、無の連続性の中から、有の刹那性が、そこかしこで、泡沫のように、かつ生まれ、かつ消えている世界なのである。

2003.4.09

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